安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

顕真7月号「疑難と答え」があまりにひどい件

親鸞会の機関誌「顕真」H23年7月号を読みました。飛雲で、6月号の記事を徹底批判されたためか、6月号より支離滅裂な文章になっていました。

特に気になった部分を紹介します。

後生の一大事に驚き、弥陀の救いを求めた時、「もろもろの善をせよ、必ず救う」と誓われた弥陀の十九願に従い、実践する諸善を「雑行」というのだから、「雑行」は弥陀の十九願からしか現れないのである。(顕真H23年7月号P6「宿善と聴聞と善のすすめー弥陀の救いに値うまでー」10章疑難と答え(その2)より)

私が親鸞会を辞めてから、随分教義を変更したのだなと感じました。

以前は、「後生の一大事に驚きが立たないから、そのために、後生の一大事を知らせるために十九願で善を勧められた」と言っていたと記憶しています。(記憶違いだったら、弘宣局の人教えて下さい)

加えて「親鸞会的な意味で」後生の一大事に驚くとは、明日をも知れない命と知り、また地獄行き間違いない身と知らされて、居ても立ってもおれない状態だと以前は説明していました。もし、そんな心境の人がいたら「『もろもろの善をせよ、必ず救う』と誓われた弥陀の十九願」を聞くのでしょうか?

「どんな人も、われをたのめ、そのまま救う」と誓われている十八願(顕真H23年7月号P7「宿善と聴聞と善のすすめー弥陀の救いに値うまでー」10章疑難と答え(その2)より)

この十八願を聞くのではないでしょうか?

後生の一大事に驚かない人には、十九願も二十願も、まして十八願も説く必要が無く、ひたすら因果の道理を説いて、善を実行させ、地獄行きのすがたをしらせなければならないというのが、現時点での親鸞会教義のようです。

そのためか、8月の追悼法要の演題は「因果の道理」だと機関誌に書いてありました。
顕真の記事からいえば、追悼法要の演題を聞くということは「後生の一大事に驚くため」のようです。
ただ今弥陀に救われたい人は、参詣する必要はないと、機関誌で報道しているようなので、ただ今救われたい人は、参詣しないほうがいいと思います。