安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以前と書き方が変わっている理由(S会退会者さんのコメント)

S会退会者さんからコメントを頂きました。
有り難うございました。

いつも安心問答読ませて頂いています。
過去のエントリー(2008−06−30)を読み返していたら以下の記述が気になりました。

(長いので中略)
いつでも、阿弥陀仏は十八願の世界にすべての人を救うのが目的であり、善知識方も、弥陀の救いをまず指し示されます。よって、説かれる善知識も、弥陀の救いを明らかにして、それに向けてどうすれば弥陀に救われますか?と、真剣に弥陀の救いを求める人に、ではこれをやってみなさいと、十九願、二十願を説かれるのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080630/1214830526

最近の「必ずただ今救われると言うことがあります。ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。」のような説かれ方と違うような気がして、違和感を感じます。

上記の過去のエントリー(真剣に弥陀の救いを求める人に、ではこれをやってみなさいと、十九願、二十願を説かれるのです。)という説き方と、最近の説かれ方(必ずただ今救われると言うことがあります。ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。)という説き方とが、別のことのように感じられるのですが、これをどのように理解すればよいのか教えて頂けないでしょうか?(S会退会者さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091030/1256911823#c1257120000

回答します。
答え方が違うというのは、何を問題にしているかによってことなります。
ご指摘頂いたエントリーは、19願を説くことは必要か不要かという流れから出てきたものです。
ただ今救われて下さいというのは、阿弥陀仏の救いはただ今の救いですよと言うことから言っています。上記の引用部分から言えば「いつでも、阿弥陀仏は18願の世界にすべての人を救うのが目的」というところから書いております。

このころのコメントのやりとりは、「三願転入」という言葉の上での話なので、19願や、20願といった言葉を書いて説明していました。
現在は、質問されるかたも三願転入という言葉をつかっての質問ではないので、そのままただ今の救いについて書いています。

コメントを頂き、2008-06-30のエントリーを久しぶりに読みました。
当時は親鸞会という組織の人間という立場で、エントリーを書いていました為にいろいろと制約があったことを覚えています。現在と書き方が違って思えるのは、理由は二つあります。

1つは、立場の違いです。
2008年当時は、いろいろあっても親鸞会の人間という立場上、「親鸞会でいわれる教え」の中で、親鸞聖人の教えとあっている部分をつないで書いているような感じでした。現在は、21世紀の浄土真宗を考える会の布教使という立場であり、一布教使として書いています。

2つめは、教学の勉強の違いです。
現在でも、教学力自体はまだまだお粗末な状態ですが、親鸞会在籍時は、今以上に一般の真宗学の勉強をしておりませんでした。
きちんと真宗学の勉強を一からしておりますと、2008年ごろには分からなかったことがいろいろと出てきます。やはり勉強は大事と思いました。

上記の理由で、書き方は違っていると感じられるところはあるかもしれませんが、阿弥陀仏の救いは現在ただ今助けるという点は、変わっていないと思います。

また、お気づきの点がございましたら、教えていただきたく思います。