安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「捨てよ」と「捨てようと思う心があれば捨てなさい」について(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ
コメント頂き有り難うございました。
(全文はこちら

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080625/1214398490#c1214614139

「たとえは一分を表す」ということだそうなので、何を喩えたいかということを察していただきたいと思います。

上記の件に関しては、たとえる内容が内容だけに、どうかなと思った次第です。

この地獄のカリキュラムをこなせば東大に合格できますよ」というのと「この地獄のカリキュラムをこなせると思うこころがあるのならやってみなさい。」ということと同一でしょうか?聞いた生徒は同じ気持ちで取り組むことができるでしょうか?

上記のたとえは、弥陀の救いを東大合格に例えられたと思いますが、「地獄のカリキュラムをこなせると思う心」が自力となります。
このたとえでいいますと、「地獄のカリキュラムがこなせると思う心」が廃った時に、東大合格できるということになってしまい。
東大合格する人の実際の心とは合わないと思い。適当ではないと思いました。
もちろん、いわれたいことは分かりますが、「生徒の気持ち」という点だけ同じだからといって、それについて論じると、良くわからなくなると思ったのでそのように返答しました。
もちろんたとえは一分をあらわすのですから、全部あうとは限りません。
「できると思う心」が廃るかどうかが、弥陀の救いについては、最も大切なので、そこが合わないと、一分があっていていると思われても、たとえとしては適当ではないと思いました。
また、自力聖道仏教のことを、ここにもってくるのも適当ではないと思いました。

「(自分の力で)雑行をすてられると思うのなら、やってみろ」といわれているのです。』

というのは貴殿が(言葉は悪いですが)勝手に蓮如上人のお言葉を書き換えているのです(ただし、蓮如上人の本心は「できると思うのなら、やってみろ」だったと思います)。

蓮如上人の本心はそうだったと思いますと同意して頂きありがとうございます。

(この世のことに喩えても同意いただけないかも知れませんが)ヘビースモーカーに向かって、
「タバコをやめなさい」というのと「タバコをやめられると思うのなら、やってみろ」と言うのは同じですか(タバコは1箱1000円になれば自分の力でやめることができるかもしれませんので合わないところはありますよ)?いわれたヘビースモーカーの受け取り方は同じですか?

このたとえでは、同じでは有りません。

上記のたとえで、いわれているものについて、いづれもタバコをすっている人にいわれているという点では同じことです。
タバコすわない人に、タバコをやめよという人は有りません。
このタバコは、雑行について元自称福徳会員さんは例えられていると思います。
「タバコをやめなさい」は「雑行をすてよ」
「タバコをやめられると思うなら、やめなさい」は「雑行をすてられると思っているならやめなさい」を例えられたのだと思います。

こういうと、勧め方が弱くなるのではないかと思われて、同じではないのではないかといわれているのだと思いますが。

「雑行を捨てよ」と聞くと、聞いた側は「捨てられるから捨てよといわれるのだな」と思うでしょうし、「捨てられると思う心があれば捨てなさい」と聞くと、「捨てられないものを捨てよといっているのかな」と思うと思われてのことでしょう。

確かに、「雑行雑種自力の心を捨てられるとおもってるのなら捨てなさい」と書きましたのも、「捨てられる」と思っている人にむかっての言い方です。
捨てられると100%思ってない、そんな心がない人に、「捨てられると思う心があれば捨てよ」とはいわれません。そういうことからいうと、そんな心がない人は有るでしょうか。
「どうせ捨てられないんでしょう」と落ち着ける人が「無宿善力及ばず」と蓮如上人が歎かれる人なのです。
「どうせ捨てられないんでしょう」と落ち着いている人は、本当に自分の心を見つめていないのです。
『「どうせ捨てられないのでしょう」と合点できたからいつかは捨てられる』と、やっぱり捨てられると思っているからです。

私が注釈をつけた部分は、説かれる方が相手の心をどう見ておられるかという視点からつけたもので、やはり御文章に有る通り、「雑行を捨てよ」と、蓮如上人は仰っています。

蓮如上人は本心は「できると思うのなら、やってみろ」であったにもかかわらず、「やりなさい」と言う表現で勧められたのはそれなりの意味があると考えています。

自力が本当に我が身の問題となるまでは、自力を捨てよ、早く救われろ、必ず救われると聞いても、「自分がなにかしたら」自力が廃り、早く救われ、必ず救われるとしか思えません。

自力を捨てさせてくださるのも、救ってくださるのも、すべて阿弥陀仏ですから、主語は阿弥陀仏になるとくりかえし書いております。

蓮如上人が「雑行をすてよ」といわれる前後に、「なんのようもなく」とよく書かれているのは、救われる相手が主語となって何かするということではないからです。

「阿弥陀仏が」(雑行をすてさせるから)「もろもろの雑行をなげすてて」一心に弥陀に帰命することが出来るのです。