安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便について8(せずにおれない気持ちについて)(元自称福徳会員さんのコメントより)

前回のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080630/1214830526)の続きです。


元自称福徳会員さんのコメント全文は、こちら
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080628/1214657835#c1214762007


続きです、蓮如上人の御文章によく書かれてある、「なんのようもなく、雑行をすてて、一心一向に弥陀に帰命して」という場所について

「救われる相手が主語となって何かするということではない」ことは同意します。しかし、ここで書かれている「なんのようもなく」は「何の要もなく」。「雑行をすてる以外、その他のこと(例えば財施や破邪顕正)は必要なく」と解釈すべきと思います。(なお、「その他のこと」の中に『「本人が自力を捨てようと真剣にやってみる」こと』も入るかどうかを問われればYesとなります。)

「なんの要もなく」とは、行者のする行いではなく、阿弥陀仏の願力によってという意味です。歎異抄の「ただ」と同じ事になります。

方便についての私の考えです。

阿弥陀仏も釈尊もこの願が真実、この願は方便と教えておられませんし、聖道諸経についてもこの経は方便だとは説かれていないと思います。ですので、たとえ弥陀の本願に救われた人であっても、軽々しく、この願は方便だとか聖道諸経は方便だと言ってはいけないと思います。「それならばなんでお前は19願や20願、聖道諸経は方便と言っているのだ」と言う話になりますが、その答えは「親鸞聖人がそのように教えられたから」です。親鸞聖人は体験と深い教学を兼ね備えられた上で、「19願や20願、聖道諸経は方便」と教えられました。そしてそのように教えられた目的は「私達が方便を捨てて18願の真実を求め、18願の世界に救われる」ためです。親鸞学徒である私たちは、「19願や20願、聖道諸経は方便」と思ってはいけないどころか親鸞聖人の教えに信順し、「19願や20願、聖道諸経は方便」と信じて求めさせていただかないといけないと思います。

上記の意見については、ほぼ同意します。
弥陀に救われた親鸞聖人ご自身が、方便の願と真実の願を分けられているのですから、言ってはいけないとはなりませんし、またそれが分からねば、人に教え導くことはできません。

ただ、「方便と信じて」というのは、どういう気持ちなのでしょうか?
そのあたりは、もう少しお聞きしたいと思いました。

親鸞聖人は「19願や20願、聖道諸経は方便なので捨てて、18願を求めなさい、そして救われなさい」と教えられました。その一方では19願や20願を説く必要があるとき(相手)には「本願で誓われている通り、実行すれば、化土往生ができますよ」と教えられています。少しも矛盾を感じません。

19願の善、20願の善(念仏)を行うことができたから助かるのではない。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わずに、真剣に実行することは可能でしょうか?

そういう気持ちにさせていただくのが、十九願で阿弥陀仏が誓われた「発菩提心 修諸功徳」なのです。

では、「十九願の善、二十願の善を行うことができたから助かるのではない」ということは、よくよく頭で理解し、教義上そうだとわかっていても、吸う息吐く息に迫る無常に驚いた人は、弥陀の救いを急いで求める人は、どんな気持ちになるでしょうか。

ここでいう助かるとは、言葉をかえると「雑行雑修自力の心がすたる」ことです。
善をしたら自力が廃るのではない、念仏称えたら自力が廃るのではない、そう分かっていても、無常は念々に迫っている、ダメだと思っても「何かの足しにはなるのでは」という心にならないでしょうか。
間に合わないとは聞かされても、「念仏の功徳はあるから、称えないよりはましではないか」とか、思わないでしょうか。
その他諸善について、「やらないよりはやったほうがいいのではないか」という気持ちは出ないでしょうか。
それら、自らの体や口や心で行う、自分で善だと思うことをあて力にして、なにかの役に立つだろうと思う心すべてを自力の心というのです。

自力の牙城はとても固く、だからこそ阿弥陀仏が十八願だけでなく、十九願、二十願と方便の願まで建てられなければならなかったのです。

やっている本人は、それが自力と思えず「それでも何かの役に立つだろう」としか思えません。
その行者に「それが雑行だ」「それが雑修だ」「それが自力だ」「それを振り捨てよ」「弥陀をたのめ」と教え勧められる方が、善知識であり信仰のある同行なのです。

知識は針の如し、同行は糸の如しといわれますのも、そこは通った者でなければ、どれだけ想像してもわからないことだからです。だからこそ、蓮如上人は「教化する者まず信心をよく決定せよ」といわれるのです。

なので、「自力などわかるものではない」「すくわれなければ自力は自力とわかるものではない」と、言っている人を今まで何人も見かけました。
「救われなければ分からない」とは、一面からいえば事実ですが、本当になんにも分からないのでしょうか。

自力の心を、疑情ともいわれますが、弥陀の本願に真剣にむかったときに、疑う心が出てこないのでしょうか。「ほんとうに一念で救われるのか」などなど、出てこないでしょうか。「これだけ聞法しているのになぜ救われないのだろうか」とか思ったことは一度もないのでしょうか。
それとも、そういう本願に対する疑いは全く出ずに、弥陀に救われてから「ああ、自分は疑っていたのか」とでもいうのでしょうか。

疑っている者に疑い晴れたと言うことがあり、自力が捨てられず苦しんだ人に、自力廃ったという喜びがあるのです。

「わかっちゃいるけどやめられない」は、なにも欲や怒りの煩悩を抑えようとおもっても、抑えられずに振り回されている人のことばかりをいうのではありません。

「自分のやった善、称えた念仏、これだけ聞いた、これだけ覚えた」それらは、全部、聞即信の一念を突破するときには間に合わないと、繰り返し聞かされていても、それでも「わかっちゃいるけどやめられない」のです。

これは、その心にならない人がみたら、矛盾と思うでしょう
「分かっちゃいる(わかった)」のなら「やめられる」はずです。

しかし、この世のこと(タバコが好きな人なら喫煙、高カロリーなものをたべる)でさえ、「わかちゃいるけどやめられない」のが、私たちです。どうして、弥陀の本願にむかったときだけ、そうならないといえるのでしょうか。

「わかっちゃいる」けど「やめられない」逆さまの心しかもたないものだから、阿弥陀仏はご苦労をされているのだし、その弥陀の願心を伝えられる、釈尊をはじめとした善知識方もご苦労をされているのです。