安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「尊号真像銘文本第9章の「帰命は、すなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり。」の「召しにかなふ」というのは、「お招きにあずかる」「お言葉に甘える」といった意味になるのでしょうか。」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-より

尊号真像銘文本第9章の「帰命は、すなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり。」の「 | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

「召し」とは、古語で身分の高い人が人をよぶ事を意味します。
ですから、仏様が私をよばれる通りになるというのが「召しにかなう」ということになります。

これに加えて書きます。
質問にある尊号真像銘文銘文はこちらです。

「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。(尊号真像銘文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P656)

こちらは、善導大師の六字釈について親鸞聖人が解説されている部分です。
「釈迦・弥陀二尊の勅命」というのは、お釈迦さまが、私に浄土往生をしなさいと勧められ、阿弥陀仏が私を浄土に来たれと招いてよび続けていることをいいます。一度発せられると取り消される事はないという意味で勅命と言われます。
その勅命にしたがったということが「召しにかなふ」ことなのだといわれます。

「召し」は身分が高い人が人をよぶ事、「かなふ」は「適う」ということで、思い通りになる、願いが成就ずることをいいます。

ですから「召しにかなふ」ということは、阿弥陀仏の願い通り喚ばれた通りになったことを言われています。

阿弥陀仏が私を救いたいと本願を建てられて、浄土に来れとよばれています。その願いが、「釈迦・弥陀の二尊の勅命」となって私はそれを聞いています。お釈迦から無量寿経をはじめとして阿弥陀仏の本願を伝えていただき、阿弥陀仏からは南無阿弥陀仏とよびかけられています。

その勅命にしたがうことの言い換えが、「召しにしたがう」ということになりますので、お尋ねにある

「お招きにあずかる」「お言葉に甘える」

でも結果は同じ事になります。

ただ、質問箱やこの記事で書いた事は、阿弥陀仏の勅命に従ったこと、阿弥陀仏が喚ばれる通りになったことで、私が主体となってなにかしたことではないということです。