安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏というのは、救いに衆生の力を全く必要としない本願が完成したというお知らせなのでしょうか。」(頂いた質問)

f:id:yamamoya:20210912110456p:plain
Peing-質問箱-より

南無阿弥陀仏というのは、救いに衆生の力を全く必要としない本願が完成したというお知らせなのでしょうか。 | Peing -質問箱-
上記について、以下のように回答しました。

お知らせというより、救いの力そのものです。

これに加えて書きます。

「お知らせ」には違いありませんが、「お知らせ」と聞くと、「お知らせ」と別に「救い」があるように思ってしまいます。
譬えていうと、スマートフォンの「通知」は、実際に画面を開いてみないと「通知の内容」が分からないようなものです。そのように「お知らせ(通知)」と「救い(中身)」は別のように考えてるところから書かれたものではないかと思います。

南無阿弥陀仏は、名号といわれます。名号とは、仏の名のりという意味です。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。](教行信証行巻 浄土真宗聖典註釈版P170)

http://u0u1.net/ZLsg

(現代文)

そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。
 また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。
 説(せつ)の字には、悦(えつ)と税(さい)の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。

ここで「告なり、述なり」と親鸞聖人は解説されています。
南無阿弥陀仏には、「告げる、述べる」という意味がありますので、その点では「お知らせ」という意味もあります。

そこで、上記に続けてまたこのように書かれています。

命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(同上)

(現代文)

「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。
こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。

ここで「本願招喚の勅命なり」とされています。


南無阿弥陀仏と名のられて、阿弥陀仏は私にむかって「ただ今助ける」と招いて呼び続けられています。
ここで「呼び声」と聞くと、やはり「お知らせ」と考えてしまいます。ただ、この呼び声はただの呼び声ではなく、呼び声がそのまま救いの働きであるというものです。


そのことを、教行信証には元照律師の「弥陀経義疏」から引いておられます。

またいはく(同)、「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」と。(教行信証行巻 浄土真宗聖典註釈版P180)

http://u0u1.net/Soml

阿弥陀仏は「名号」をもって、私を救って下さいます。そこで、この南無阿弥陀仏を耳に聞き、口に称えると、限りなく功徳が心に入り込み、仏に成る因となり億劫に作り続けた重い罪が除かれて、仏のさとりを得ることができる。といわれています。

南無阿弥陀仏は、名号と聞けばただの名のりであったり、呼び声と思うでしょうが、その南無阿弥陀仏によって私を助けてくださいます。お知らせがそのまま救いというのが、阿弥陀仏の救いです。


「お知らせ」は聞きました。「お救い」はまだでしょうか?というような考えをもってしまいますが、ただ今私が称え、私が聞いている南無阿弥陀仏が、私を救う働きそのものであり、呼び声そのものです。


「ただ今救う」というお知らせは、「ただ今救う」という働きそのものです。「ただ今救う」を聞いて疑い無いのが「ただ今救われる」というすがたになります。


これについて、質問を頂きました。続きのエントリー

anjinmondou.hatenablog.jp