質問箱には以下のように書きました。
ここは蓮如上人と順誓の関係性から言って、今から大事なことをいうぞと言う前に、少し冗談を入れてその場を柔らかくして言われたものです。
実際、その後順誓が蓮如上人に何かを渡したという既述はなく
「此の事を教ふる人は阿弥陀如来にて候(以下略)」とされています。
御一代記聞書の内容については、またブログに書きます。
以下続きを書きます。
お尋ねの御一代記聞書の全文は以下のものです。
(76)一 蓮如上人、法敬に対せられ仰せられ候ふ。いまこの弥陀をたのめといふことを御教へ候ふ人をしりたるかと仰せられ候ふ。順誓、存ぜずと申され候ふ。いま御をしへ候ふ人をいふべし。鍛冶・番匠なども物ををしふるに物を出すものなり。一大事のことなり。なんぞものをまゐらせよ。いふべきと仰せられ候ふ時、順誓、なかなかなにたるものなりとも進上いたすべきと申され候ふ。蓮如上人仰せられ候ふ。このことををしふる人は阿弥陀如来にて候ふ。阿弥陀如来のわれをたのめとの御をしへにて候ふよし仰せられ候ふ。(蓮如上人御一代記聞書 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P1257)
質問部分も含めて3つに分けて書きます。
蓮如上人の問いかけ「弥陀をたのめと教える方を知っているか?」
この御一代記聞書は、蓮如上人が法敬に質問を投げかけるところから始まります。
蓮如上人、法敬に対せられ仰せられ候ふ。いまこの弥陀をたのめといふことを御教へ候ふ人をしりたるかと仰せられ候ふ。順誓、存ぜずと申され候ふ。
いまこの「弥陀をたのめ」ということを教えて下さった方を知っているか?と尋ねています。
それに対して、法敬は何も答える事ができなかったのか、変わりにその場にいた順誓が「分かりません」と答えています。
法敬が答えにつまったのは、常日ごろ「弥陀をたのめ」と教えておられるのが蓮如上人ご自身だったからです。その蓮如上人から「弥陀をたのめと教える方はどなたか知っているか?」と問われたわけですから、意図を計りかねて答えに窮してしまったのだと思います。
何かお礼を出してくれたら教えちゃうよ?!
その次に続くのが、質問にもあった以下の箇所です。
いま御をしへ候ふ人をいふべし。鍛冶・番匠なども物ををしふるに物を出すものなり。一大事のことなり。なんぞものをまゐらせよ。いふべきと仰せられ候ふ時、順誓、なかなかなにたるものなりとも進上いたすべきと申され候ふ。
蓮如上人が「それではどなたが教えて下さったかをいいましょう」と仰いました。
そこから、「鍛冶屋や大工が人に物を教える時は、何かお礼をするものだ。特にこれは大事な事だから何かお礼を出しなさい。そしたら教えましょう。」と続けられました。
それに対して、順誓は「もちろん、どんなものでも差し上げましょう」と答えます。
このやり取りは、質問にあるような「蓮如上人は見返りを要求されている」「何か物を差し上げないと救われないのか」というものではありません。
いわゆる、ここまでの文章は、話で言う「振り」です。
次の行からが、いわゆる「オチ」の部分になるわけですが、それに向けて最初に少し変わった質問をされ、その後に「こんな大事な事は何かお礼がないと教えられないなぁ」とハードルを上げています。もちろんこれは本心ではなく、これから話す事は大事なことだぞということを、少しおかしみのある言い方で和らげた表現です。
順誓は、その蓮如上人の発言に対して「ここまでは振りの話だな」と分かった上で、「何でも差し上げますので教えてください」と対応しています。
「弥陀をたのめ」は阿弥陀さまの仰せ
蓮如上人仰せられ候ふ。このことををしふる人は阿弥陀如来にて候ふ。阿弥陀如来のわれをたのめとの御をしへにて候ふよし仰せられ候ふ。
最後に蓮如上人は、「このことを教えられるのは阿弥陀如来である。阿弥陀如来が『われをたのめ』と教えてくださったのだ」と仰いました。
最初に法敬が答えられなかったのは、「弥陀をたのめ」と教えられるのは、蓮如上人であると思っていたからだと思います。もちろん、蓮如上人はいつも「弥陀をたのめ」と教えて下さっています。いわゆる善知識は、「弥陀をたのめ」と伝える人のことをいいます。
しかし、蓮如上人が仰るから、善知識がそういうから「弥陀をたのもう」と思うのは、えてして「自分から阿弥陀仏にお願いする」という形になってしまいます。
そうではなく「弥陀をたのめ」というのは、阿弥陀仏が直接私に「われをたのめ」と仰せになっていることなのだということを、ここで示されたかったやりとりです。その阿弥陀仏が直接「われをたのめ」と仰せになっていることを、その仰せを聞いて疑いないのが「弥陀をたのむ」信心です。
何か差し上げないと救われないということは、一切ありません。
追記
コメントで教えて頂き、訂正しました。