『念仏するものを救う本願とは「念仏するものを救う本願と信じて」念仏するものを救う本願のことです。』の意味がよくわ | Peing -質問箱-
anjinmondou.hatenablog.jp
この記事に書いた文章についての質問です。
質問箱には以下のように書きました。
念仏は、「信と行」が離れないものとして言われています。そのため、信心を離れた念仏はありませんし、念仏を離れた信心もありません。
そのことを「『念仏』するもの=『念仏するものを救う本願と信じて念仏』するもの」と書きました。
念仏するには、信心を切り離すこともできませんし、信じてにも念仏が切り離すことはできません。言葉上は同時となりますが、「口に称えた時云々」と言えば、信じてが先となります。
これに加えて書きます。
阿弥陀仏の本願はどういう本願かというと、「念仏するものを救う本願」と言われます。そのことを念仏往生の願ともいわれます。
それについて親鸞聖人は、御消息に以下のように書かれています。
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12・親鸞聖人御消息 - WikiArc26・浄土真宗聖典註釈版P785)
ここでは阿弥陀仏の本願を「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という御誓いだと書かれています。そこで、とにかく口に称えることさえすればよいのかというと、それについて「ふかく信じてとなふるがめでたきこと」と続けて書かれています。
そこで、少々読みづらくなりますが、御消息の文章を使うとこのようになります。
阿弥陀仏の本願とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」と「ふかく信じて」南無阿弥陀仏と称えるものをば極楽へ迎へんと誓われたものということになります。
阿弥陀仏の本願で「念仏往生の願」と言われた念仏は「本願を深く信じての念仏」です。またこの「本願」とは「念仏往生の願」ですから、念仏を離れての信心ということはありません。
そのことを御消息にこのように書かれています。
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。(末灯鈔11・親鸞聖人御消息 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P749)
「念仏するものを救う」と聞いて念仏する人は、言葉を変えると本願を信じて念仏する人です。
それを、続いて
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。(同)
と言われています。
少々長い言い回しになりますが、「念仏するものを救う」と聞いて念仏する人は、「念仏するものを救う」と聞いて疑う心の少しもない(信)人ということです。一声でも南無阿弥陀仏と聞いて、疑うこころがなければ、念仏(行)を離れた信心もないということです。
「念仏する」が先か、「信じて」が先か、それとも同時なのか、について
先に書いた文章は、念仏と信心が丁度入子構造で書かれています。
「念仏するものを救う」といっても、その「念仏」は「念仏するものを救う本願を信じて念仏する」という念仏です。
「信じて」も、「念仏するものを救う本願」と信じてのことです。
本願の上では、念仏も信心も分けることはできません。その意味ではどちらが先か、あるいは同時かというように二つに分けた前提での問いは立ちません。
ですから、念仏したとき助かるのか、信じたときに助かるのかという問いも本来は成立しません。
ただ、「口で念仏している時」助かるのか「信じた時」助かるのかという「時」のことだけを言えば、信じた時に助かります。繰り返しになりますが、その「信じた」といっても「念仏」と切り離す事はできないものです。