安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「こんな南無阿弥陀仏で助かるのだろうか」という思いは、自分でなくそう、なくそうと思ってもなくせるものではなく、この思いを持ったまま、この思いごと、阿弥陀様におまかせするということになるのでしょうか?(Peing-質問箱-より)

anjinmondou.hatenablog.jp
について、質問を頂きました。

Peing-質問箱-より

2024-07-15の『安心問答』で、「その前提として「こんな南無阿弥陀仏で助かるのだろうか」と思っていても、聞 | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

「この思いを無くさねばおまかせできない」と思われているのでしたら、いつまでたっても阿弥陀仏におまかせすることはできません。それは「この思いを無くして」から「まかせよう」と自分で救いに段階を作っているからです。
その意味で、その思いは一旦忘れて阿弥陀仏におまかせして下さい。

これに加えて書きます。
「こんな南無阿弥陀仏で助かるのだろうか」という思いがなくならない、については、「そう思う」という自分の常識と、「浄土真宗の教え」のどちらを信じるかということになるかと思います。

確かに「南無阿弥陀仏」と口で称える称名念仏自体は、特別な訓練も努力も必要ありません。いわゆる「易行」なのが念仏です。そこで「易行」だから「劣行」と考えるのが常識的見解です。言い換えると、「誰でもできる行には、私を助けるほどの力がない」というものです。

しかし、易行だからこそ全ての人が救われる行なのだと法然聖人は教えられました。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり(選択本願念仏集 (七祖) - WikiArc・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209)

「上の諸行」とは、仏像を作り、寺や塔を建てることや、智慧を磨くこと、多く法を聞いて学ぶこと、戒律を守ることなどがあげられています。それらは、「誰でもできる行」ではありません。仏像を作ったり、寺や塔を建てるには経済的に豊かな人でなければできないことです。現在大河ドラマ「光る君へ」の主役の一人である藤原道長は、浄土往生を願ってたくさんの寺を建て仏像も造らせました。息子の頼通は平等院鳳凰堂を建てましたが、こんなことは誰でもできることではありません。他の行も、「誰にでも」できるものではありません。また、「できる」という人が圧倒的に少なく、「できない」人が多いのが「上の諸行」です。

法蔵菩薩は、全ての人をその経済力、能力によって差別なく救う為に、「称名念仏一行をもつてその本願」とされました。
ですから「誰でもできる行(易行)」であることが、助ける阿弥陀仏にとって一番大事だったと言うことです。そして、「誰でもできる行」に、最も勝れた働きを与えられたのも阿弥陀仏です。

そのことを、親鸞聖人は教行信証行巻にこのように書かれています。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。(顕浄土真実行文類 - WikiArc

称名念仏は、「もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海」と言われています。「こんな南無阿弥陀仏で助かるのだろうか」ではなく、「この南無阿弥陀仏でなければ助からない」というものです。

その上で「こんな南無阿弥陀仏で助かるのだろうか」と思うのであれば、他に助かる手だてがあるのかどうかを考えて見てください。私の助かる道が他にないなら、南無阿弥陀仏によるしかありません。