安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「結局のところ私が救われないのは、南無阿弥陀仏(私をたのめ、必ず救う)を聞いていないからでしょうか。」(Peing質問箱より)

anjinmondou.hatenablog.jp
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に続いての質問です。

Peing質問箱より

6/5、6/8の続きなのですが、結局のところ私が救われないのは、南無阿弥陀仏(私をたのめ、必ず救う)を聞いていな | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

如実に聞いていないという意味で、聞いていないということになります。

これに加えて書きます。

「私が救われないのは○○だから」と考える時に

現在の自分は救われていないという「結果」に対して、何が「原因」なのだろうかと考えるのは自然なことです。ただそう考える前提は、「原因さえ分かれば救われる」「原因が不明だから救われない」になっていると思います。

なぜなら、日常生活でなにか不具合が起きた時には大体それで解決するからです。
例えば機械の故障の場合は、その「原因」が特定できれば、元に戻す事はできます。あるいは体調不良のことでいえば「原因」が分かれば、治療が可能になります。

しかし、「原因」が分かったとしてもどうにもならない時もあります。先の機械の故障でいえば、「原因」がある部品の破損だと分かったとしても、すでに生産中止になっており入手ができないとなれば修理はできません。また体調不良の「原因」が分かったとしても、すでに治療ができない状況であれば快復することはできません。

その「原因」は「自分でなんとかなること」なのか「なんともならないこと」なのか

今回のお尋ねでいえば、「南無阿弥陀仏を聞いていない」のが「原因」で、「助からない」となれば、「南無阿弥陀を聞けば助かる」ということになります。

ただこうなると、今までいろいろと聞いてこられたと思いますので、「聞いたけど助からない」ことの「原因」を聞いておられるのだと思います。

その「原因」が、「聞く回数」ならば、努力次第でなんとかなりそうです。「真剣さ」ということならば、これも努力次第でなんとかなりそうな気もします。しかし、質問されている方は、随分こういうことは試みてこられたことと思います。

そこで私は、質問箱に「如実に聞いていないという意味で、聞いていないということになります」と書きました。

「如実」とは「真実・真如のとおりに、あるがままに、という意*1」です。南無阿弥陀仏を、南無阿弥陀仏の通りに、あるがままに聞くのが、「如実の聞」とか「如実に聞信」といわれます。

では「如実に聞く」というのが、「自分でなんとかなること」なのか、「なんともならないこと」なのかを考えて見ます。

自分で「如実に聞く」は、難しい

南無阿弥陀仏を自分で「如実に聞こう」とするのは難しいです。質問されている方も、「そのまま聞く」とか「素直に聞く」ということを試してみたことはあるのではないかと思います。
私も、そのように聞いた事を試してみたことはあります。しかし、「そのまま」になろうとするのはすでに「そのまま」ではなく、「自分が思い描くそのまま」なので、「そのまま」とはなりません。「素直に」というのも、「素直になった体」にすることはできますが、それはあくまで「なった体」の話であってその時点で「素直」ではありません。

「如実の聞信」は「如実修行相応」

親鸞聖人は、信心について「如実修行相応」と言われています。

ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。(顕浄土真実信文類 (末) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P254)

如実修行相応について、浄土真宗辞典では以下のようにあります。

にょじつしゅぎょうそうおう 如実修行相応
不如実修行に対する語。真如の理にしたがって修行し、その信じるところ、修するところが真如にかなうこと。また、阿弥陀仏の本願に相応し、教のごとくに行じて法に違たがわないこと。『高僧和讃』には、

決定の信をえざるゆゑ 信心不淳とのべたまふ
如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり (高僧和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P587)

とあり、「文明本」左訓には「をしへのごとく信ずるこころなり」とある。 (浄土真宗辞典)

ここで「教えのごとく信ずる心」とあるのは、南無阿弥陀仏が私を救って下さると称えて聞いて疑いない状態のことをいいます。

私を助ける働きは、南無阿弥陀仏そのものの働きにあるのであって、私がそれを「受け取る」という構えを持つ事で助かるのではありません。私の心を何とかしてから称え聞くから助かるのではありません。

「助かろうと思ったから」助かるのではありません。
阿弥陀仏が「助ける」と働かれるから助かるのです。南無阿弥陀仏と称え聞けよと願われた通りに、今の南無阿弥陀仏があります。南無阿弥陀仏と称え聞くのが、ただ今助けるをただ今助かると聞くことです。

南無阿弥陀仏を限定せずに、南無阿弥陀仏はただ今助けると聞いて救われて下さい。