安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ズバリ自力の沼から脱出する方法はありますか?」(Peing-質問箱-にいただいた質問)

f:id:yamamoya:20211114072931p:plain
Peing-質問箱より-

ズバリ、自力の沼から、脱出する方法はありますか? | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

脱出する方法はありませんが、助けるの仰せに従えば助けられます。

これに加えて書きます。

このように書かれると言う事は、ご自身が自力の沼にはまっておられると言うことだと思います。

自力について、親鸞聖人このようにおっしゃってます。

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P688)

自力というのは、私の心、私の力、私の積み上げた善根功徳をたよりにしている人のことです。 いろいろと考えたあげく、どうしたら助かるのだろうかとあらゆる手段を試みますが、それによって助かることがないので自力の沼と表現をされているのだと思います。

沼と言う表現を使うならば、一般に言う沼と言うのはいちどはまってしまうと自分の力では抜け出ることができません。誰かに助けてもらわなければなりません。救急車を呼んだり、近所の人に助けを借りたりしなければ、抜けることはできません。


もし沼に片足だけを突っ込んだ状態だったならば、これ以上踏み込んではいけないと人から教えてもらえばその片足を抜く事はできます。しかし両足が沼にはまり、また腰まで浸かり、首まで浸かってしまったならばこれはどうしようもありません。 そうなってしまったならば、どのように手足を動かすかは脱出の方法としてはありえないことになってしまいます。


自分で沼から出る方法はどこにもありませんが、そこから救うという法はあります。それが、南無阿弥陀仏の喚びかけであり、それが私の口から称えられているところの念仏です。


質問されている方は、すでに南無阿弥陀仏と称えた事もあるでしょうし、耳で聞いてもおられると思います。しかし、それを聞いても「それ以外に何かあるのでは」と思っておられるのだと思います。

そのことについて、先に出した一念多念証文の少し前に親鸞聖人はこのように書かれています。

別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。(同上)

南無阿弥陀仏と念仏をしながら、他力をたのまない人を「別解」といわれています。「別」というのは、一つの南無阿弥陀仏を二つに分ける言葉です。また「解」は理解するということであり、解く(ばらばらにする)という言葉です。阿弥陀仏から差し向けられた南無阿弥陀仏を、自分の行と理解してとなえていることをいいます。

ここでは、念仏しながら、その念仏を自分で分解し、阿弥陀仏からの救いの働きであるのにも関わらず自分の行と思っている人の事をいわれています。

南無阿弥陀仏と称え聞いていても、その南無阿弥陀仏以外に何か救いの力があるのではないかと思ったり、信心といっても南無阿弥陀仏の他にあるように思います。
自力の沼も、南無阿弥陀仏の他に抜け出る法はありません。


私を助けようという法はすでに私を助けようと働いておられます。自力から脱出する方法はありませんが、ただ今助ける法はあります。ただ今助ける法にただ今救われて下さい。