安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自分の心を見るのを見るのをやめて本願の月を眺めなさいとよく言われますが、具体的にどうすればいいのでしょうか?」(Peing質問箱より)[心を見ると自撮りの話]

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自分の心を見るのをやめて本願の月を眺めなさいとよく言われますが、具体的にどうすればいいのでしょうか? | Peing -質問箱-
Peing-質問箱に頂いたことについて、加えて書きます。

信心とはなんだろうとか、私は信心決定したのだろうか、もうすぐ信心決定できるのかと考えると、ついつい自分の心を見てしまいます。それは、自分の心の変化を通して信心の有無や、信心を獲られそうかどうかを計ろうとするからです。また、「信心」という言葉は「心」がついているので、余計に自分の心のことが気になります。


しかし、自分の心だけを見つめていても信心と言うものを見つけることは出来ません。なぜなら、質問にも「本願の月を眺めなさい」と言われるように、信心とは「本願の月」が私の心という水面に映り込んだ状態のようなものだからです。


そのことを歌で詠まれたのが法然聖人の作品で、御一代記聞書にも引用されています。

「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」とある歌をひきよせ御法談候ふ。なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。(御一代記聞書2・浄土真宗聖典註釈版P1232)

http://u0u1.net/aZSW

ここの「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」が、法然聖人の詠まれたものです。
月かげとは、月の光のことです。月の光がとどかない場所はないけれども、月の光は眺める人のこころにこそ宿るのであると言われています。


今で言えば、スマートフォンのカメラのようなものかと思います。スマートフォンのカメラをどれだけ眺めて見ても、自撮りモードでは画面に映っているのは自分の顔だけです。
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月をカメラに収めようと思えば、カメラを月が写るように向けなければなりません。空にカメラを向けて月が映り込めば、月がカメラに宿ります。
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この月の喩えのように、南無阿弥陀仏という月の光が私の心に届き宿った状態をもって信心といいます。ただ今助けるとの南無阿弥陀仏の仰せを、聞いて疑い無いときには、私の心に南無阿弥陀仏がそのまま宿ります。ただ、それは私の心に宿っているといっても月が水面に宿ったように水そのものは何も変わりません。スマートフォンで月を撮影してもスマートフォンそのものは何も変わらないの同じことです。


では、具体的にどうすればよいかということですが、スマートフォンで言えば自撮りをやめて月にカメラを向けなさいということになります。自分の心の中をどれだけ見て見ても南無阿弥陀仏はそこにありません。南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏の方から差し向けられるものですから、南無阿弥陀仏の方を向いて、南無阿弥陀仏を称え聞くということになります。


私はどうなるのかという自分視点から、阿弥陀仏がどう助けたいかというように阿弥陀仏の方からの視点を変えることです。スマートフォンで言えば内部カメラ(自撮りカメラ)から、外部カメラに切り替えるようなものです。
私が助かりたいから、阿弥陀仏が助けてやりたいに切り替えなさいというのが、質問に書かれた「自分の心を見るのをやめて本願の月を眺めなさい」ということです。