安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏に疑いは無いのですが『全部嘘かも知れない』という思考が何度も頭に浮かびます。(略)これも疑いでしょうか?」(頂いた質問)

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南無阿弥陀仏に疑いはないのですが、「全部嘘かもしれない」という思考が頭に何度も浮かびます。変な言い方ですが、全部 | Peing -質問箱-

 

Peing-質問箱に頂いた質問について、追加で書きます。

上記にすでに書きましたが「南無阿弥陀仏に疑いない」というのが、文面通りならば何を想ったところで浄土往生の妨げにはなりません。

 

 

しかし、「南無阿弥陀仏に疑いない」がどういうことを指して言われているのか分かりませんが、思い込みや理屈は分かったというものの場合は、いつかはそれも危ういものとなってしまいます。

 

 

それは「南無阿弥陀仏に疑いない状態を自らの力で作り上げた」時は、作ったものはいつかは壊れてしまうからです。

 

 

南無阿弥陀仏に疑い無いのが信心ですから、その信心は崩れません。崩れないことを指して金剛の信心とも言われます。

 

選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく。

この信楽をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり(唯信鈔文意 浄土真宗聖典(註釈版)P703)

「信心破れず、傾かず、乱れぬこと金剛のごとくなる」から金剛の信心といわれます。

 

 

これは「破れず、傾かず、乱れぬ」ことを「金剛の如し」と言われているのであって、「金剛の如く固い信心」だから「破れず、傾かず、乱れぬ」となるのではありません。

 

 

「選択不思議の本願・無上智慧の尊号〔南無阿弥陀仏)を聞きて一念も疑うこころなき」状態は、私の側には「何もない」ので、「破れる」ものも「傾く」ものも「乱れる」ものもありません。では、空っぽなのかといえば南無阿弥陀仏が働いて下さって「摂取して捨てたまはず」なので、それは「破れず、傾かず、乱れぬ」ものです。

 

その上で、私の心で何が浮かんだとしても「南無阿弥陀仏を聞きて一念も疑うこころなき」は変わりません。無いものは無いので、もし出てきたということがあればそれは無くなっていなかったということになります。

 

無い疑いは出てきませんが、不審のある間は重ねて法を聞いてみてください。「安心したいから疑い無いことにしておこう」というのは、自分で自分を安心させているので、真宗の安心〔信心)ではありません。

 

私の方で「こうなりたい」「こうしたい」「こうしておこう」という作為のないのが、南無阿弥陀仏に疑いないということです。