パロディ (id:parotan) 2019-10-03 20:59:
(略)
仏願の生起本末、無量寿経は「神話」「物語」と解説されていることがよくあります。深い宗教的な真理を表現するための物語・・・というように。有名な人の本にもそう書かれてあるのを読みましたし、法話でもそう聞いたことがあります。五劫思惟や兆載永劫の修行などは、神話、物語として信じるのでしょうか
https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/10/02/030357
それとも獲信者にとってはこの宇宙で起こった「事実」なのでしょうか?
それともそんなことはどっちでもいいのでしょうか?
結論から言うと、どちらでもいいと思います。
阿弥陀仏の御苦労を、神話、物語として信じるというものは異なります。とはいえ私自身、神話というものを本気で信じたことはないので、そのあたりの感覚は個人的には解りません。しかし、「固く信じて疑わない」ような信じ方はしていません。
また、宇宙で起こった「事実」として受け取る訳でもありません。仮に「事実」として受け取る場合には、法蔵菩薩という菩薩がそもそも出家する前の王とはどこの国の王様だったのかとか、そんな過去のどこの星にあったのかというようなことを実際にあったこととして受け止めるわけですが、そういうものでもありません。
そこで無量寿経のご文について解説をされた一念多念証文に親鸞聖人はこのように書かれています。
この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。
https://bit.ly/2Viai0D
これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。
この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(一念多念証文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P690)
本来は、「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」(唯信鈔 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P709)である法性法身である仏が、私たちの認識にのるように姿形をあらわして、法蔵菩薩と名乗られて、本願を建てられて阿弥陀仏となられたので、阿弥陀如来のことを報身如来といいます。
ですから、この阿弥陀仏を方便法身といいます。方便というのは、「かたちをあらはし、御名を示して」私に知らせて下さることをいいます。
私の目でも、耳でも認識できない一如宝海が、私を救う為に私のわかる相で現れて下さったのが法蔵菩薩であり、本願であり、阿弥陀仏です。その意味では物語の形式をとられたものですから、「物語」には違いありません。
ただ、普通の「物語」と違うのは「かつてこういうことがあった」ということではなく、現実に私を救う働きを言葉に表されたものです。その意味で、阿弥陀仏がましますというのも、五劫思惟も兆載永劫の修行も「遠い昔、遥か彼方の銀河系で」のことではなく、ただ今私に働いておられることですから、それは「現実」といえば現実です。ただそれは、「現実世界に起きた事象」ではなく、私に分かるようなかたちになって下さったものです。
この私を救う為にあらわされたものと受け取るときは、どちらで受け取られてもいいと思います。そういう意味で、どららでもいいといいますか、どちらでもないというのが結論です。