安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「いったい救いというのはなんだろうか。自分は救われたいと思っていないと思っている」(頂いた質問)[しらふで生きるの話]

昨日、聞法をしている人たちと話していて話題になりました。いったい救いというのはなんだろうか。自分は救われたいと思っていないと思っているということ。
私は救われたいと思って聞き始めた人間ではなく、聞いている中で自分にとっての救いという瞬間がこれかなとおもい、それがたまにあるというぐらいです。感じているかどうかとしたらですが。そうだなあみたいなものですけど。
逆に救いを求めていない、浄土に行きたくないという友人たちはなぜ聞いてるのかな?ということも後になって思ってみたりもしました。
救いって、人それぞれに感じるものが違うということでしょうか。(頂いた質問)

一般に、宗教に入ろうという人は何らかの「救い」を求めています。

とはいえ、「救い」の指す意味は、人によって異なります。

例えば、人間関係から来る苦しみや病気の苦しみの救いを求めて宗教の道に入っていく人も多いです。

 

その点で、浄土真宗の救いというのは、「人間関係」「病気」の苦しみの解決が主眼ではないので、それらの苦しみの解決を「救い」とイメージしている人からすると、少々腑に落ちないこともあるかと思います。

 

ただ、「救い」のイメージは人それぞれだと思いますが、共通しているのは「自分ではどうにもならないと思う問題」についての解決をもって「救い」だとしていることです。

 

先ほど書きました、「人間関係」や「病気」については、それこそ「自分ではどうにもならない」という段階になってくると、それまであまり考えてもいなかった宗教に救いを求める人もいます。

 

 また宗教によっては、「人間関係」や「病気」の解決を「救い」としているものもあります。それに対して、浄土真宗の救いは何かといえば、浄土に往生し、仏のさとりをひらき、またこの世界に帰ってきて衆生済度をすることをいいます。

 

それについて、親鸞聖人は教行信証にこのように書かれています。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには 還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教行信証 教巻)

 

 阿弥陀仏の救いには、二種の回向があります。一つが往相、二つには還相です。

往相というのは、浄土に往生させる働きのことで、還相は、浄土から還来してこの世界で人々を済度する働きをいいます。

 

そこで、浄土といわれても今一つよく分からないので、そもそも往生したい気持ちになれないという方もあります。それについて、実は私たちは気がつかないけれども現状は救いが必要なものだということがいろいろな言い方で教えられています。

 

今回は、親鸞聖人の書かれたものを一つ紹介します。

もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。(親鸞聖人御消息)

(現代語訳)

もとは無明の酒に酔い、貪り・怒り・愚痴の三毒ばかりを好んで食べていらっしゃったのに、仏の誓いを聞き始められるようになってから、無明の酔いも次第に少しずつ醒め、三毒も少しずつ好まないようになって、阿弥陀仏という薬を常に好むような身になられたのでありました。

 

親鸞聖人は私たちを「無明の酒に酔っている」と言われています。ここでいうのは、ただの酔っ払いというよりは、いまでいうアルコール依存症のようなものを考えたほうが分かりやすいと思います。

 

アルコール依存症とは、最近報道されることも多くなったのでご存知の方も多いでしょうが、簡単に説明すると、アルコールに対してブレーキをかける機能が脳の中で壊れてしまった状態をいいます。「ちょっと一杯のつもりで飲んで」も、自分で止めることが出来ない状態をいいます。もちろん飲まない間は、飲まないように努力することも出来るのですが、一杯目を口にすると、止められないのが依存症の症状です。そして、アルコールを摂取することの優先順位がどんどん上がっていき、そのことを最優先に考えるようになります。

 

その意味では、「無明の酒」の依存症になっているような状態なのが私です。そのため「貪欲・瞋恚・愚痴」に囚われ、そのことを最優先にし、この煩悩に一度目が向くとそのことばかりを考え、行動しつづけます。「わかっちゃいるけどやめられない」のです。

 

アルコール依存症の人もそうなのですが、ずっと酔っている訳ではありません。目が醒めて、しらふになると自己嫌悪に陥ることもあります。同じように私たちも「無明の酒に酔って」いるのですが、たまにしらふになることがあります。その時に、「このままでいいのだろうか」と考えます。

 

それが仏教を聞き始めるきっかけとなります。その「このままでいいのだろうか」という思いが救いを求める気持ちが起きる最初です。先に書いたように「浄土に往生したいと思わない」「救われたいと思っていない」としても、無明の酒の酔いから一時的に醒めて「このままでいいのだろうか」という思いがあれば、どうか聞き続けて頂きたいと思います。浄土往生に心が向くようになる日も来ます。そういう私に阿弥陀仏は「このままではよくないから浄土に生まれなさい」と呼びかけておられます。

 

そこで、休日や仕事の終わった後に、仏教を聞きに出掛けるようになると、「もっと他にいろいろいやることあるんじゃないの?」と周囲から言われることもあると思います。

その構造は、いままで酒を飲んで来た飲み友達が、酒をやめた人にいろいろと言ってくるのによく似ています。

 

それについて「しらふで生きる」(町田康著」から紹介します。

 

しらふで生きる 大酒飲みの決断 (幻冬舎単行本)

しらふで生きる 大酒飲みの決断 (幻冬舎単行本)

  • 作者:町田康
  • 発売日: 2019/11/06
  • メディア: Kindle版
 

著者の町田康氏は、芥川賞作家です。30年間一日も欠かさずに酒を飲み続けた「大酒飲み」です。しかし、ある日を境に断酒をし4年間続けています。そのことを書いたエッセーがこの本です。

 

この中で、町田康氏はこう書いています。

酒をやめたと言いしばしば酒徒から受ける問いに「それで人生寂しくないですか?」というのがあるがそんなことはない。なぜなら、人生とはもともと寂しいものであるからである。(酒を飲んでも飲まなくても人生は寂しい より 「しらふで生きる」)

それまで「酒を飲まなければ何が楽しいのか」と言っていた著者は、実際に酒をやめてみてたどり着いたのは「酒を飲んでも飲まなくても人生は寂しい」でした。

 

同じように、「無明の酒」を飲んでも飲まなくても人生は寂しいのです。さらに言えばどこにも行き場もないのが人生です。

 

その私に、行き場があるぞ、それは浄土だぞと呼びかけられるが南無阿弥陀仏であり。それを聞いて疑い無い身となって、浄土に往生をさせて頂くのが阿弥陀仏の救いです。