安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「仏はずっと救われているのかもしれません。仏は本当に私を救おうとしているのでしょうか?私も仏の側(浄土)に生まれることができるのでしょうか?」(1chさんのコメントより)

1ch 2013/10/28 15:38
(略)
そうすると、自分はずっと救われなくなるのかもしれません。そして仏はずっと救われているのかもしれません。仏は本当に私を救おうとしているのでしょうか?私も仏の側(浄土)に生まれることができるのでしょうか?
(略)
自分の救いを失うという仏の救いはどうして怖いのでしょうか?信心決定すると自分が救われないでも仏が救われるならそれでいいと思えるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131021/1382339796#c1382942322

1chさんは、仏というものを何か自分と無関係なものと考えておられるように思います。まして、阿弥陀仏は私を救うために法蔵菩薩が本願を建てられ、五劫思惟と兆載永劫の行によってあらわれた仏です。その意味で、「私を救うための仏」でありますから、私と無関係なはずはありません。


それを知らないから、浄土に往生できないのだと曇鸞大師は浄土論註にいわれています。そのことを、親鸞聖人は教行信証信巻に引文されています。

〈如彼名義欲如実修行相応〉といふは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。(教行信証信巻_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P215)

http://goo.gl/rtnSlZ215

南無阿弥陀仏の名号は、私の一切の無明を破り願いを満たしてくださいます。ところが、念仏している人であっても、なお無明が破れず願いが満たされない人はどういう人の過渡いえば、如実に行をおさめず、名号の謂れに相応しないからである。では、如実に行をおさめず、名号の謂れに相応しないとはどういうことかといえば、二つのことを知らないからである。
それは、阿弥陀如来が「実相身」であり、「為物身(ものの為の身)」であることを知らないからです。

実相身 為物身とは?

じっそうしん 実相身
真如実相にかなった自利円満の仏身。これに対して衆生(物)のために利益を施す利他円満の仏身を為物身という。曇鸞はこの実相身・為物身によって阿弥陀仏の性格を明らかにしている。それは阿弥陀仏の仏身の全体を指して実相身とし、同時にまた為物身とみるもので、阿弥陀仏の正覚は単に仏みずからのためのものではなく、衆生救済のために成就されたものであることを示している。
浄土真宗辞典P285)

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

阿弥陀仏という仏は確かに仏となられています。それを実相身といわれています。しかし、それは「救われた人」「救われてない人」というような自他の区別を離れた実相(真如)を悟られた仏であるということです。


また、そのような実相身であるままが、同時に「私を浄土に往生させ、仏にさせる」というお姿そのものです。ですから、「阿弥陀仏は仏になられたそうだけれども、私には関係ない話」ということはありません。


ですから「仏は本当に私を救おうとしているのでしょうか?」ではなく、「私を救おうとされているから仏になられた」のです。また、私を救う本願が成就した相が阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏のいわれです。かならず南無阿弥陀仏によって浄土往生する身に救われます。ただ、浄土といっても如来といっても、「こちら」「あちら」というように分けて考えられるようなものではありません。そのように、「自分」と「それ以外」のように浄土や如来のお働きを考えているのは間違いです。


最後に、自分のことを見つめていても自分の殻から出ることはできません。南無阿弥陀仏を聞いたのが信心ですから、自分と相談するのではなく法を仰いで聞いてください。南無阿弥陀仏は、私を救うためにあらわれて下さった阿弥陀仏のお働きそのものです。


最後の部分のお尋ねはすみませんがよくわかりませんでした。
仏が救われないというのはよくわかりませんでした。文面からすると「救われる=仏のさとりをひらく」ということのようなのですが違いますでしょうか?