安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「18願を心得たかどうかが身体と関係するという邪見でも(頭では間違いだと分かっているが気になって仕方ない)、放っておけばいいのでしょうか」(id:hatsukoixさんのコメントより)

id:hatsukoix 2019-09-20 20:26:43

回答ありがとうございました。こんな邪見が止まらないどうしようもない奴も助けてくれる阿弥陀様なのですね。

疑問がわいてきたので一ついいでしょうか

18願についての疑問ということなら…と仰っていますが、自分の邪見は、少し18願にもかかっていると思います 18願を心得たものは諸根が具足するので、諸根の具足していないものは信心を得ていない…。と
御一代記聞書にあるように
(97)

 ^蓮如上人は、 「世間では、 何でもうまくこなしてそつがない人を立派な人だというが、 その人に信心がないならば、 気をつけなければならない。 そのような人は頼りにならないのである。 ※たとえ、 片方の目が見えず歩くのがままならないような人であっても、 信心を得ている人をこそ、 頼りに思うべきである」 と仰せになりました。

身体の状態と信心の有無は関係ないと頭では分かっているのですが…
18願を心得たかどうかが身体と関係するという邪見でも(頭では間違いだと分かっているが気になって仕方ない)、放っておけばいいのでしょうか

結論からいうと、コメントで書かれているように放置すればよいです。

どうしても気になることがあるというのは、心情としてよくわかりました。
いいかえると、id:hatsukoixさんは、阿弥陀仏に救われたら、信心を獲たならどうなるのかということについて大変強い気持ちをもっておられるということだと思います。そのなかで、身体の状態と信心の有無について考えておられるようです。


御一代記聞書を引用されていたので、本文を紹介します。

一 おなじく仰せられ候ふ。世間にて、時宜しかるべきはよき人なりといへど も、信なくは心をおくべきなり。便りにもならぬなり。たとひ片目つぶれ、腰をひき候ふやうなるものなりとも、信心あらん人をばたのもしく思ふべきなりと仰せられ候ふ。(御一代記聞書 97)

ここでいわれているのは、コメントにあるように信心を獲たという人にも「片目つぶれ、腰をひき候ふやうなる」方がおられるということです。

18願をこころえて、信心獲得の身になったといっても、身体の状態は何も変わりません。それは、病気が治るとか、身心の不具合が治るということがないということです。ただ、阿弥陀仏の救いは私を浄土に往生させて仏にしてみせるということです。

そこは、個人差はありません。
年齢も、性別も、身体的状態も関係なく、浄土に往生して仏になるという救いです。阿弥陀仏の救いはそれ以外にないのですが、そこが気になるとのことでした。

そうなりますと、id:hatsukoixさんの疑問は、救われた後はどうなるのか、それが納得できない限りは救いは拒否するということだと思います。私たちのことでいいますと、無始より現在に到るまで生死を繰り返してきた訳ですから、そんなに選択肢はないということです。

最も問題な私の後生を助けるという仏に対して、「救われたらどうなるのでしょうか」と疑問を起こしても余り意味のないことです。浄土往生にさだまる以上に、何かあったとしてもそれは「あったらよかった」というくらいのもので、「それがないなら私は救われません」というものではありません。


id:hatsukoixさんは、阿弥陀仏に救われたらこうなるばずというイメージが強いのだと思います。救われたらこうなるというのは、いってみればあまりり大きな問題ではありません。私が生死を離れて、浄土に往生して仏になるということが大事なのです。


私の後生のことについて、病気に喩えられることも多いですが、病気がなおるということが大問題ですから、病気が治ったらどうなるのかということはそんなに大きな問題にはなりません。


id:hatsukoixさんは、それほど先のことを考えずに「この私」を救う本願にただ今救われて下さい。