安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

なぜ口称の念仏なのかについて(でんさんのコメントより)

前回のエントリーについて、
anjinmondou.hatenablog.jp

コメントを頂きました。有り難うございました。

投稿  2019-06-30 05:35:40

信前の者に信後の念仏を勧めるのは詮のないことです
あなたは10何年か前そのように言われたら納得しましたか?
ただちに救われましたか?
現在の自分の思いは所詮主観でしかないということです

でん  2019-06-30 16:56:59
心で念じるとは書いてません。 心で称えると書いたのですが。 もしかしたら、私は口称念仏の意味を誤解してるのかも しれません。 声に出ることが口称念仏だと思っていましたが、 それ以外も含まれますか? 投稿さん、私はまだ信前の者です。 納得できてないから今回質問させて頂きました。

念仏為先  2019-07-01 01:24:58
信心とは本願に疑い晴れた心のことですが、 いちいち本願文を読まずとも、念仏称えれば疑いの晴れたのがわかります。 裏を返せば、信心得る前は念仏称えてこそ、 自身の疑いあることを知れるのですね。 疑いあるを知らずしては、疑い晴れることもないのは理屈ですから、 つまりは念仏称える一念にのみ、信心のあるやなしやは決することになります。

まず、でんさんのお尋ねに対して、お尋ねの意図に対して的外れなことを書いておりました。投稿さんからのご指摘もあり、改めてエントリーを書かせていただきます。


でんさんの「声に出ることが称名念仏だと思っていました」についてはその通りです。「口称念仏」が、浄土真宗でいわれるところの称名念仏です。その意味で「心で称える」とコメントに書かれたことを、私は「心で南無阿弥陀仏を思い浮かべること」だと理解しました。それで念ずることというように書きました。


しかし、でんさんが言われる「心で称える」と言うのは、口称するような心の状態で、音量ゼロで口称念仏をしている状態だということではないかと思います。(違っていたらすみません)。そういう意味で言えば、それも口称念仏であり、称名念仏と何も変わりはありません。病気などで、音声が発することができないような状態になったならば、音量ゼロの称名念仏ということになりますが、それも称名念仏ということになります。


ただ、そういう場合を除き、「聞其名号 信じ歓喜」と本願成就文にもあるように、その名号を「聞いて」信心歓喜するとあることから、声に出して南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と念仏することを勧められます。音量ゼロでも心の耳では聞いているというこになるという意味では同じなのですが、「聞其名号」の「聞」の字はやはり「声」であり「音」を聞くわけですから、口称念仏を勧められています。


そこに何の違いがあるかということまでは、私にはわかりません。しかし、元を言えば、観無量寿経にある「〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。」というところから来ているのですが、ここでも念じることが出来なくても口でただ仏の名を称えなさいという勧めによって救われています。


「聞其名号」とあるので、南無阿弥陀仏と称え、南無阿弥陀仏を聞き、その南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのが信心です。ただ今の南無阿弥陀仏に、ただ今救われて下さい。