安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

獲信者と同じところで喜べない人は、信前の人か、化城にだまされている人と思っていいのでしょうか?(ちまきさんのコメント)

ちまきさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

獲信者同志は一味なので、同じところで喜べるんですよね?・・・ということは、
獲信者と同じところで喜べない人は、信前の人か、化城にだまされている人と思っていいのでしょうか?(ちまきさんのコメント)

「獲信者と同じところで喜べる」かどうかで、信前か、化城にだまされているとは言えません。
理由は、獲信者かどうかを第三者で認定することはできないからです。「獲信者だと自分が思う人」と同じところで自分が喜んでいるから、自分は大丈夫だとは言えません。また、喜べないから信前であるとも言えません。

一味というのは、味わいが一味ということではありません。同じ南無阿弥陀仏という功徳の海に入ったということです。
以下は、一味と仰ったご和讃の一部です。

(41)
名号不思議の海水は 逆謗の屍骸*1もとどまらず
 衆悪の万川*2帰しぬれば 功徳のうしほ*3に一味*4なり
(42)
尽十方無碍光の 大悲大願の海水に
 煩悩の衆流帰しぬれば 智慧のうしほに一味なり(高僧和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P585

悪人と言ってもいろいろありますので、「衆悪の万川」といわれています。万川があっても、海に入ってしまうと、一味となります。それを「功徳のうしほに一味なり」「智慧のうしほに一味なり」といわれています。
これは、逆謗の者も、その他いろいろな悪人も、それらの悪が、南無阿弥陀仏のお働きで、同じ南無阿弥陀仏に転じてしまいます。それを一味と言われたのです。

「同じところを喜ぶ」といっても、コメントの内容では何をさしておられるかは不明だったので、特定の人の「味わい」のようなものをさして、それと同じかどうかという判断はできません。信心を得ている人だとしても、その人その人の味わいは異なるからです。

「本願を聞いて疑い無い」という信心は同一ですが、それ以外のどれくらい喜んだかとか、どれくらい念仏がでたとか、どう感じているかというのは、人によって異なります。
本願を聞いて疑い無いという点で、同じところを喜んでいるとはいえます。しかし、「本願まことだと喜んでいます」という言葉だけで、その人が獲信している人かどうかという判定は第三者にはできません。

信前か、信後かの変わり目は、本願に疑い晴れたかどうかであって、「獲信者と同じところを喜んでいるかどうか」ではありません。

*1:逆謗の屍骸・・五逆、謗法のものは、仏道の死骸のようなものであるという。

*2:衆悪の万川・・【左訓】「よろづの悪をよろづの川にたとへたり」

*3:万川が海に入れば同一の塩味となるように、五逆・謗法の衆生も他力の信心を獲れば、一切の悪業を転じて仏の功徳と一味となること。

*4:【左訓】「ひとつあぢはひとなるなり」同一の味、内容。また無差別のこと。