安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

転悪成善の益は、「借金が貯金になる」ようなものですか?(頂いた質問)

現生十種の益の一つ「転悪成善の益」について質問します。親鸞会では「借金が貯金になる」というたとえ話を出していました。悪が善になるというのが今ひとつよくわかりません。(頂いた質問)

悪が転じて善になるというのは、借金が貯金になるようなことを言われたのではありません。借金が貯金となると聞くと、十悪が十善に転じるように思われる人もありますが、それは違います。

転悪成善で言われる「悪」は、人間が煩悩で作る悪業ですが、「善」は、南無阿弥陀仏の功徳の大宝海のことです。

そのことを、教行信証行巻には以下のようにいわれています。

「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善*1の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。(浄土真宗聖典(註釈版)P197)
現代文

  • 「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、悪人が積み重ねてきた、大海の水ほどもある五逆罪、謗法罪、一闡提など、数限りない無明煩悩の濁水を転換して、本願によって成就された大悲智慧の真実なる無量功徳の宝の海水に成らせることです。
  • この転成のはたらきを海のようだと喩えたのです。
  • これによって、経に「煩悩の氷がとけて功徳の水となる」と説かれている意味がよくわかります。

「凡聖所修の雑修・雑善の川水」(善)と「逆謗闡提・恒沙無明の海水」(悪)を転じて、「本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水」に成すといわれています。
凡夫や聖者の修めてきた善も、逆謗闡提の作る悪も、等しく南無阿弥陀仏の功徳の大法海に転じて下さると言うことです。
それを海に例えられています。きれいな川の水に、塩を途中で加えて海水にするわけでもなく、汚い川の水をどこかで濾過してから海水にするのでもありません。
どんな川の水も、そのまま流れ込めば、同じ海水に転じていきます。
同じように、人間の行った善も悪も、等しく転じて南無阿弥陀仏の大功徳にしてくださるということです。


罪を消してから功徳にするわけではありません。転悪成善の益と言っても、とたんに性格が変わるわけでも、病気が治るわけでもありません。殺人の罪を犯した人の罪が消えて、人助けをしたことになるというものでもありません。

「しからしむ」といふは、行者の始めて兎も角も計らはざるに過去・今生・未来の一切の罪を善に転じかへなすといふなり。「転ず」といふは、罪を消し失わずして善になすなり、よろづの水大海に入りぬれば即ち潮となるが如し。(唯信鈔文意・法蔵館の真宗聖典P615)*2

唯信鈔文意には「罪を消し失わずして善になすなり」といわれています。罪を「よろづの水」、善を「大海・潮」に例えられています。ここで「大海・潮」といわれているのは、教行信証行巻のご文でいえば「「本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水」のことです。

罪が消えて善になるわけではありません。人間の善業も悪業も同じ、南無阿弥陀仏に転じて下さるくださるお働きが、転悪成善ということです。

*1:雑修・雑善・・自力心で修するさまざまな善

*2:唯信鈔文意は、親鸞聖人の真蹟とされるものが二種類有ります。一つは、「正月二十七日本」でこちらは浄土真宗聖典(註釈版)に収録されています。もう一つは、「専修寺蔵本」でこちらは、法蔵館の真宗聖典に収録されています。上記の部分は、法蔵館の真宗聖典の方にしか載っていないので、根拠は法蔵館の方にしてあります。