安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。 」(求道者Kさんのコメント)

今回は、コメントの文章が長いためコメントを紹介しつつエントリーを書きます。コメント全文をそのまま読まれた言い方は、下のコメント欄の文章をお読みください。

求道者K
(略)
「南無阿弥陀仏は救いの条件でなく救いの証拠である」

とは、本派のある僧侶様のお話しでお聞きしたお言葉でしたがなるほどなと聞かせていただきました。
こちら側の条件など一切問われず、つまりは「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」(一念多念文意)ことをせずとも、南無阿弥陀仏の名号において救いは完成しておる。我々の生き様や死に様を問うことなく、阿弥陀仏の方で十方衆生の往生を誓っておられるのだとお聞かせいただきました。
しかし言うならば、我々が救いを証明しなくとも救いが完成している事実には変わりないのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662


この「救いが完成している」については、救いの手立てが完成していると言うことだと思います。
救いの手立ては既に完成しているのですが、後に紹介されているお聖教のご文からしても、阿弥陀仏の救いといいますのは雑行をしているものまで救うと言うお救いではありません。

証拠がなくとも救いが成就しているという事実には影響がない。なんの思いはからいもなく南無阿弥陀仏を称え・聞くことが救いが私に届いていた証拠ではありますが、私が証する以前に阿弥陀仏の方は常におはたらきになっているのですよね。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

救いの働き(願力)が私に届いているということと、私が救われる(信心を獲る・往生浄土が定まる)は同じことではありません。

しかし、宗祖はたとえば『尊号真像銘文』の観念法門の文を釈す箇所において、

「総不論照摂 余雑業行者」というは、総はすべてという、みなという。雑行雑修の人をばすべてみなてらしおさめまもりたまわずとなり。てらしまもりたまわずともうすは、摂取不捨の利益にあずからずとなり。本願の行者にあらざるゆえなりとしるべし。

と雑行雑修の人を嫌うどころか救いから漏れるとおっしゃっております。これはどういったお心でしょうか。

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「本願の行者にあらざるゆえなり」と書かれています。
本願の行者ではないというのは、本願を信じる行者ではないということで、念仏一つで救う本願を信じないで、雑行雑修をしている人のことです。そういう人は、最初から本願を信じ念仏していませんので、本願の救いからは現時点で洩れています。

同文については『一念多念文意』においても

「総不論照摂余雑業行者」というは、「総」は、みなというなり。「不論」は、いわずというこころなり。「照摂」は、てらしおさむと。「余の雑業」というは、もろもろの善業なり。雑行を修し、雑修をこのむものをば、すべてみな、てらしおさむといわずと、まもらずとのたまえるなり。これすなわち、本願の行者にあらざるゆえに、摂取の利益にあずからざるなりとしるべしとなり。このよにてまもらずとなり。

同様に解釈しておいでです。私としては「このよにてまもらず」という所がポイントであり、救いは完成しているのだが雑行雑修自力の心では「このよ」、つまりは「今・ここ」において救いを感得することができないので、自力を嫌い他力の信をすすめておられるようにお聞きしたのですが。

しかしたとえ自力の念仏であろうとも(あるいは称名すらなくとも?)、(本派さんは死後往生を説くと理解していますが)南無阿弥陀仏と称する人は死後往生、つまりは臨終来迎にあずかるという意味の救いからは漏れないのではないでしょうか。
それこそ生き様死に様を問わず、私の証明行為すらも問わずとも救いを完成させた南無阿弥陀仏のお心かと感じるのですが…。

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摂取不捨の利益に預かっていないのですから、臨終にだけは助けて下さるということはありません。親鸞聖人の教えられた阿弥陀仏の救いは、平生に摂取不捨の利益にあずかるのですから、それなしに浄土往生はありません。
平生に摂取不捨の利益にあずかれば、生き様死に様は関係なく浄土に往生させるというのが南無阿弥陀仏です。

いや「今・ここ」の救いでなく、臨終における救いにおいても「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」が必要とされるのであれば、それこそせっかくの南無阿弥陀仏が救いの証拠ではなく条件に成り下がってしまうのではと思いはかったことです。

これも宗祖の嫌う「私の思いはからい」ですので、どうぞお導きをいただければと存じます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20170225/1487965766#c1488096662

平生でも、臨終でも「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の救いが阿弥陀仏の本願です。
「本願を信じ念仏するものを必ず浄土に生まれさせる」という本願において、「本願を信じなくても救って下さい」といわれれば、本願から洩れるのは文章を読まれても分かると思います。


ただ「本願を信じる」というのは、救いの「条件」とはいえません。
なぜかについて「条件」の意味を、以下のものから考えて見ます。

じょうけん【条件】
〖名〗

  1. 約束ごとや契約などの箇条。項目。くだり。また、物事について限定したり制約したりする事柄。
  2. 物事の成立・生起に欠くことのできない事情。物事が実現するのに必要な事柄。(小学館 精選版日本国語大辞典)

まず(1)の意味で言うならば、「条件」というのはあてはまりません。
一般に約束事や契約などには、お互いの行為に付いての条件が出されるからです。私が○○したならば、あなたは××してください。という場合です。
阿弥陀仏の救いはこれにあたりません。なぜなら、「本願を信じる」というのは、「私の行為」ではないからです。求道者Kさんのコメント文脈からすると、本願を信じることがなにか私の行為のように読めてしまいます。しかし、聞其名号 信心歓喜するといっても、それは私の行為ではく、名号に手出しをせずそのまま聞き入れただけで私の作為は入っていません。


次に、(2)の意味でいうのならば、「条件」というのは当てはまりません。
なぜなら、上記に書かれているように、「本願を信じ念仏する人を必ず浄土に生まれさせる」ということは、「本願を信じない」人は浄土に生まれることはないからです。そういう限定の意味は出てきます。しかし、いま本願を信じていない人も、一度本願を信ずれば必ず浄土に生まれさせる本願です。