安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

お聖教や法話はスポーツ実況に似ている(リオオリンピックを見て)

今回のエントリーは、連日報道されるリオオリンピックを見て思ったことを書きます。結論は、タイトルに書いた通り、お聖教や法話はスポーツ実況に似ているということです。


私たちが、スポーツ観戦に触れる最初の機会は、テレビやラジオ、ネットでの中継だと言う人が多いと思います。まして、今回のリオオリンピックでは、その場で競技を観戦できる人は大変少ないです。その競技の中継に必要不可欠なものが、実況のアナウンサーと解説者です。


オリンピックの中継では、私たちが日ごろ目にする機会のない競技が放送されることがあります。今回で言えば、卓球、バドミントン、体操などなどです。また、メダルが期待されたフェンシングもそうです。私は、たまたまフェンシングの男子フルーレでメダルを期待された太田雄貴選手が負けた試合をテレビで観ました。正直言って、フェンシングの試合を観るのも初めてで、ルールも解らず見始めました。その時に、大変有り難かったのが、NHKの実況アナウンサーと解説者の音声でした。その音声は、「どういうことで勝敗が決まるのか」「どういうルールになっているのか」「選手の背景はどういうものなのか」「今回の試合結果の意義はどういうことなのか」「試合状況はどういう感じなのか」を逐一説明してくれたので、詳しいことは分からないなりに、フェンシングの試合を結果は残念でしたが、面白く見ることが出来ました。

もし、この実況中継のアナウンサーと解説者がいなかったら、私にはどう見えていたでしょうか。恐らく何が起きているかよく分からず、「なんとなく勝負はついたらしい」くらいにしか分からず、その競技の面白さも分かりません。


今回のオリンピック放送も、NHKスポーツでは、中継の見逃し配信というのをやっています。それを見ると、見逃し配信には実況の音声がなく、ただ試合のそのままの映像と音声が流れているだけのものです。


私は、男子体操に関心があったので、白井選手が跳馬で銅メダルを取ったとのニュースを知り、上記のサイトで見逃し中継をみようとして、実況なしの映像を見て驚きました。それは、「何が起きているかよく分からない」からです。新技「伸身ユルチェンコ3回半ひねり」で銅メダルを獲得したのですが、実況なしの映像では、そもそも「何回転したの?」「この技何?」くらいにしか、さほど体操に詳しくもない視聴者には理解出来ません。

まして、自分が全く知らない競技で、実況なしに見たら何もわかりません。
ちなみに、馬術を知らない人がこれを御覧にになっても、何も分からないと思います。私もわかりません。
障害馬術団体予選
http://sports.nhk.or.jp/video/element/video=27355.html
そこで、浄土真宗において、お聖教や法話の役割は、今迄述べてきたスポーツ実況と解説によく似ていると感じました。浄土真宗は、南無阿弥陀仏(念仏)のいわれを聞いて救われる教えです。「南無阿弥陀仏(念仏)」だけは、長年聞いている人も、初めての人も、「南無阿弥陀仏」としか耳に聞こえません。
よくよく聞いている人にとっても、実況や解説はより楽しいものですし、全く聞いたことのない人にとっては、実況や解説は不可欠なものです。それなしでは、何が起きているかわからないからです。
とはいえ、スポーツの実況ならば、その競技あっての実況であって、何もなしに実況するということはありません。お聖教や法話も、現に眼の前で働いて下さる南無阿弥陀仏がなければ、只の一人語りになってしまいます。たとえ名実況といわれる中継があっても、それはその競技そのものが素晴らしかったからです。

名実況と言えば、私の世代ではアテネ五輪での男子団体で、これを決めれば金メダルという場面で、NHK刈谷アナウンサーの「伸身の新月面が描く放物線は栄光への架け橋だ」があります。


これも、非常に素晴らしい競技を、素晴らしい実況が、視聴者に素晴らしいと伝えた一つの例だと思います。どれだけ素晴らしい競技も、伝わらなければ、視聴者にその素晴らしさは伝わりません。反対に、どんな名実況者でも、競技が素晴らしいものでなければ、視聴者は感動しません。
この私をただ今救って下さる南無阿弥陀仏は、掛け値なしに素晴らしいものなのですが、それが伝わらないのは、やはり伝えるものがよろしくないからだと感じました。