安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「これらの思いは全て自力であり、捨てものです、と言われても私には捨てられないようです。」(新垣真さんのコメント)と、なぜ高森顕徹会長の法話に講師部員は全部参詣することになったのかについて

新垣真さんのコメントに多数コメントをいただき有り難うございました。

新垣 真 2012/01/04 09:45
最終的には、本願の聞けない私である。だからこそ名号六字のお力で聞かせていただく、ということですね。

となりますと、求道者がお聖教を目にし、法話を耳にする過程での心境としては、「本願が聞けない者だなぁ」と感じてくるのはごく自然なことですよね。単に聞くのが難しいと考えてしまうのも同様だと思います。しかし、もちろん意識としては、なんとしても聞きたい、救われたいと思うのですが、それとは裏腹に涼しい顔をして、一向に聞こうとしない自己。聞きたい一杯と聞けない一杯が自己矛盾するところに私は泣かされ、苦しんでいます。確かにこういった心境にならねばいけない、と言ってしまうと間違いになることは再々聞かせていただきました。しかし、結論からいえば、「聞ける」と思うのは、自惚れで本願を撥ね付ける心ですよね、ですから「聞けない自己」が知らされてくるのは不可避的、と理屈ではいきついてしまいます。この心が間違いならただの被害妄想か、という質問もしましたね。これらの思いは全て自力であり、捨てものです、と言われても私には捨てられないようです。いや、捨てたつもりが捨てれていなかったと言った方が近いでしょうか。少なくとも皆さんの求道理論を何度聞いても、今現在の私にとっては堂々巡りにしかならないことが分かりました。とは言いながら、案外皆さんのアドバイス通り自分に合った善知識が見つかれば、何でもなくなるのかもしれませんが…

あと、一つ前の内容になりますが、高森会長は「ワシの話だけを聞け」「ワシが善知識じゃ」と自身の口から言われたことがあるのですか?
少なくとも私は直接聞いたことはありません。むしろ、その取り巻き(主に講師など)が勝手に言っているだけのように思います。実は、私がこのサイトに興味をもった理由は、S会の同行(主に講師)の狂信的に思える求道態度に不信を感じたからです。そんな会員を野放しにしているのは誰だとなれば反論はできませんが、そこのところもハッキリさせておきたく思います。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120104/1325629348#c1325637900

新垣さんのコメントされている、聞こうとしてもなかなか聞けない、捨てようとしても自力はなかなか捨てられないという悩みは、多くの人が感じるところだと思います。

大事なことは、何が私を浄土往生するはたらきなのかということです。私のあらゆる行為で浄土往生するのではありません。南無阿弥陀仏で浄土往生し仏のさとりを開くのです。親鸞聖人は、念仏成仏と言われています。

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念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃ー大経讃・浄土真宗聖典(註釈版)P569)

私が「○○」して救われるというのは、「万行諸善これ仮門」の部類に入ります。それに対して、「念仏成仏これ真宗」です。南無阿弥陀仏で救われるということです。
私の口から称えられるところの南無阿弥陀仏は、私の力を加えて初めて成就するのではありません。また、私が「聞く行為」「信じる行為」を加えて成就するのでもありません。何かをこちらから加えなければ、積み重ねなければ救われないというのは、全て「聖道権仮の方便」の考えですから、本願一つ、南無阿弥陀仏一つで救う第十八願の救いと、それ以外の違いを間違えると「自然の浄土をえぞしらぬ」毛頭浄土を知ることはできないといわれています。

また教行信証には、念仏について

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P186)

と言われています。(現代語訳はこちら

南無阿弥陀仏は私の行ではありません。ですから、不回向の行といわれ全ての人に念仏成仏しなさいと勧められています。自力は捨てものといわれるのは、この南無阿弥陀仏に手をかけて自分の行のように思うからです。南無阿弥陀仏はこれひとつで救うように成就し、私に回向されるものですから、そのまま聞いて念仏して救われてください。

もう一つの高森顕徹会長が「ワシの話だけを聞け」「ワシが善知識じゃ」と言ったことが有るのかということについて書きます。
すでに、迎春さんほか多くの方のコメントに有るとおりです。
親鸞会という組織は、高森会とか高森教といわれるほどの高森会長の指示通りのことしかやりません。以前に「善知識高森先生」と機関紙に書いていたのも、それを書かなくなったのも全て会長の指示です。なぜ書かなくなったのかは、本願寺派から「善知識だのみだ」と批判を受けたため、機関紙上からは「善知識高森先生」は削除するようになりました。

私が親鸞会講師部にいたころに聞いた話を一つ紹介します。それは、過去全国各地の高森会長の法話に会員が参詣することになったきっかけをつくった会長の発言です。
親鸞会が発足し、講師部員制度ができはじめた当初は、高森会長が遠方に法話に行く際には、講師部員はそれを地元で見送って、高森会長が法話に行っている間地元で活動をしていました。当時は、講師部員も地元の会員もそれが普通だと思っていました。一般的に、自分のところの住職さんが遠方に招かれて法話をするからといって、門徒さんが総出で行くというのはありませんので、当時そのように講師部員が考えたのもごく自然なことでした、
ある日高森顕徹会長が講師部員にこう言って叱りました。
「キミら(講師員)は、いつも人に火の中分けて聞けといいながら、自分は聴聞しなくていいのか?ワシが遠くで説法しているのを見送っているような態度でいるというのは、人に言っていることと自分がやっていることが違うんでないんか!」

これを聞いた当時の講師部員は、「あー、私たちは間違っておりました」と反省し、土日に行われた全国各地の法話に参詣することが、義務化されることとなりました。担当講師が、参詣することになったのでそれに伴い、会員にも同じようなことを勧め、「ワシの話だけを聞け」が実現しました。

善知識帰命の団体を作り上げてきたのは間違いなく高森会長です。会長が「言え」と言ったことを言い、「言うな」と言ったことは絶対に言わないような組織になっているのが親鸞会です。ですから、講師部員が「高森会長の話だけを聞きましょう」と言っているということは、高森会長が言わせているということです。

追記 2012-01-05 17時44分

以上のように、高森会長の発言は、ヤクザの脅しと何も変わりません。
一見相手が反論できない理屈と持ってきて、相手を攻め立てます。
善良な精神の持ち主は、「会長のいうことももっともだ」と判断して、「自分が間違っていたのだ」という思考に落ち着きます。
これは丁度、交通事故の示談交渉にもちこむヤクザと何も変わりません。
ヤクザは「お前は人の怪我をさせといて、何も誠意をみせないのか?1」ともっともらしいことを言います。善良な人は、ヤクザの言うとおりにお金を出し続けてしまいます。
それと同じことが、親鸞会では行われています。直接的に「金を出せ」といわずに、高森顕徹会長は、会員から金と人生を搾取する構造になっています。

とくよしみねさんのコメントに紹介されたURLを追記します。
投稿:ある特専部員の除名の真相(前編): さよなら親鸞会
http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2009/09/post-a65a.html
清森義行氏の除名の真相(1): さよなら親鸞会
私の白道