安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏の救いとはどういうもので、どう救われたのか。往生とはどういうことなのか、そのあたりをお聞かせください。(求道者Kさんのコメント)

求道者Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

求道者K 2016/11/23 21:24
興味深くよませていただきました。電子書籍のご著書も拝読している最中ですが質問させてください。(これまでと重複であればすいません)

>浄土真宗は、南無阿弥陀仏の宗教ですから、南無阿弥陀仏一つです。南無阿弥陀仏一つで救われ、南無阿弥陀仏一つで往生します。

とのことですが、数々の法話等をお聞きしましても、「必ず救われます」というお話しはお聞きしましても、残念ながら「私は救われました」というお話をほとんど聞いたことがありません。
山も山様ご本人様は救われているのでしょうか?救われていることと思いますので、是非、南無阿弥陀仏の救いとはどういうもので、どう救われたのか。往生とはどういうことなのか、そのあたりをお聞かせください。

もちろんお聖教上の言葉による表現もお聞きしたいところではありますが、この現実生活における内容としてそれがどのようなものなのか、なるべく言葉を尽くして表現してくださると有難いことです。よろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160929/1475150538#c1479903870

私は救われましたという法話がないのは、法話というのは基本的に阿弥陀仏のお働きを褒め称えるものだからです。なぜなら、阿弥陀仏に救われたと言っても、私は何もしていないので、自分のことで語ることはありません。例えば、九死に一生を得たような場面で、自分の機転や行動に関係なく救助隊の人に救助された人は、仮にその体験を語るにしても、「自分は何もしてないのですが」という前提で話をするしかありません。その上で話をするとすれば、「救助隊の方がどう苦労をされたのか」という話をするしかありません。

そこで私自身が救われているかというお尋ねですが。そういうことでしたら救われています。ただ、どう救われたかということを、ブログに書かないのは先に書いたような理由からです。往生については、阿弥陀仏が必ず浄土往生させるという仰せを聞き入れているだけで、私自身が浄土をこの身で見たことはありません。


お尋ねの趣旨からして、救われたら現実生活の内容としてどういうものなのかということなので、現時点での思うところを書いてみます。現時点で、といいますのは、救われたあとでも真宗では「お育て」という言い方をして、救われた後にまた阿弥陀仏のお育てによって信心についての味わいは成長または変化していくものだとされているからです。それ自身は、私も感じるところです。5年前と今、昨年と今では異なります。


救われたらどうなるかについては、それに該当することが一般に少ないので、私自身が感じることで例えますと、一度クリアしたゲームの二週目といった感じです。
私は、1973年生まれでファミコン世代の人間です。私が10才の時にファミコンが発売されました。それ以降、鬼ごっこや三角ベースをして遊んでいたのが、ファミコンを持っている友人の家に集まってゲームをするようになりました。そのうち私もファミコンを所有するようになり、ゲームに夢中になりました。


どのゲームも最初はエンディングを目指して頑張ります。では、一度クリアしたゲームはそれで二度とやらないかといえば、そうではありません。言い方はいろいろありますが、よくいう言い方では二週目という状態になります。つまり、一周回ってまた、最初からやり直すか、ゲームによってはそのあとも続けるというものです。

二周目になると、一旦クリアをしたので、ゲームをクリアする以外にゲーム内のいろいろなことを試してみたり、ゲームの世界そのものを楽しむようになります。クリアする前は、如何にこのゲームを早くクリアするかばかりを考えていたのが、一転してゲームの世界そのものを楽しめるようになります。

現在の私の感じることは、このゲームの二週目によく似ています。ゲームというのは、クリアしたからといってその瞬間に主人公が急に強くなったりはしないものです。クリアしたことによって出来ることが大きく増えることはありません。多くの人におなじみのスーパーマリオを例にとると、全部のステージをクリアしても、主人公のマリオが出来ることは全く変わりません。一度クリアした人は、クリア自体を目標とせず、それぞれの人が、その人にあったゲームの楽しみを見つけて遊んでいます。

私が救われたあとに、何が変わったかといえば、上記のようなものです。
以前は、現実生活に加えて、自分は救われるのか救われないのかという緊張感が常にある状態で生活をしていました。先が見えない不安は常にあったと思います。

しかし、救われてみると、「どうしたら救われるか」という心配はなくなりました。常に気にかかっていたことが、解消しました。ただゲームと違うのは、ゲームをクリアできるかどうかは、本人の努力次第ですが、阿弥陀仏に救われるには、私の努力は関係ありません。ただ、阿弥陀仏のお力によって救われます。

ゲームの二週目に例えたのは、クリアしたあとのゲームの内容がどんな内容であったとしても、一度終わったという事実は変わりないということです。別の言い方をすれば、私は生きている間に、人生が二周目になったようなものです。「救われるかどうか」の人生が一度終わり、「救われた後の人生」が始まりました。どういうことが起きるかということは、見通せるような智慧はありませんが、阿弥陀仏が私を浄土に往生させ、仏にしてみせると誓われた本願は、その通りと聞き入れています。どんな経路をたどったとしても、浄土往生に変わりがない人生にそれ以上望むものはありませんから、自分のできることはさせて頂こうという気持ちで生きています。