安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「我々は何かを知ろうとしてはならない死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ」というフレーズで、既に死を超越してしまった山も山様を始め妙好人の方たちはどのように感じられますか?そしてそんな方たちの目には何が見えているのでしょうか?(名無しさんのコメントより)

名無し 2016/08/09 23:35
ある有名な漫画の一節にこのような詩があります。

「我々は皆 生きながらにして死んでいる
終焉は常に 始まりの前から そこに在るのだ
生きることが 何かを知り続けることならば
我々が最後に知るものこそが終焉であり 終焉をついに見出し
完全に知ることこそが 即ち死なのだ
我々は何かを知ろうとしてはならない
死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ」

とあります。真宗の立場ではこの一節をどのように味わわれているのでしょうか?

また、特に
「我々は何かを知ろうとしてはならない
死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ」
というフレーズで、既に死を超越してしまった山も山様を始め妙好人の方たちはどのように感じられますか?
そしてそんな方たちの目には何が見えているのでしょうか?(名無しさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160806/1470470000#c1470753303

どんな言葉かと調べて見ると以下のコミックの扉に掲載されていました。

BLEACH モノクロ版 25 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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どんな漫画なのか知りたい方は、以下を参照下さい。
BLEACHとは (ブリーチとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
私自身は、BLEACHの最初のころは読んでいましたが、そろそろ連載終了するそうだというニュースを聞いて少し気になっているくらいの読者です。

そこで、今回コメントを頂いた詩を読んでどう思うか、自分なりに考えて見ました。そのことを以下に書いて行きます。

我々は皆 生きながらにして死んでいる
終焉は常に 始まりの前から そこに在るのだ

このあたりは、生まれたからには死なねばならないということを表現しているのだと思います。

生きることが 何かを知り続けることならば
我々が最後に知るものこそが終焉であり 終焉をついに見出し
完全に知ることこそが 即ち死なのだ

死に際して、何か特別なことを知るのではないかという、予想を書いておられるのだと思います。
しかし、私の立場といいますか、生活の実感として感じることは、死とは常に自分と隣り合わせにあるものでありますから、日ごろ感じないことが「死」というイベントによって感じられると思うのは幻想です。現在感じられないことが、死に際したら知られるようになるというのは、死によって私のあらゆる感覚が拡張ないし、向上しなければありえないことです。よって、死に際したら「終焉をついに見出し完全に知ることこそが 即ち死なのだ」ということはありません。そんな人はあるのかも知れませんが、多くの人にとって死とは、明日の朝刊を見るような連続したことであります。ある日の朝刊を読んだからと言って、何か今迄知らなかった事が知らされるということはありません。違うことは、今の私の生が終わってしまうことです。

最後にお尋ねの

我々は何かを知ろうとしてはならない
死を超越できぬ者は 何ものも知ろうとしてはならないのだ

については、一種の選民思想的なものを感じます。
なぜならは「死を超越してものは全てを知っている」「死を超越できぬ者は何も知りえない」という構図になるからです。浄土真宗は、「死を超越したものは偉い」とか「勝れている」とはいいません。親鸞聖人御自身が「煩悩具足の凡夫」とか「極重悪人」と言われているからです。


浄土真宗は「死とは何かを知れ」という教えではありません。生とは?死とは?何も分からない私を助ける法(南無阿弥陀仏)があることを聞いて下さいというものです。
ただ今救う本願にただ今救われて下さい。「死」を知るとか知らないではなく、「助ける法」を聞くのが信心です。