安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救われるとか救われないとか言っておられますが、私達は救われなければならないような悪い状態なんでしょうか?」(さとしさんのコメントより)

さとしさんからコメントを頂きました。ありがとうございました。
前回の続きです。

さとし 2014/11/27 08:47
基本的なことをお聞きしたいです。
救われるとか救われないとか言っておられますが、私達は救われなければならないような悪い状態なんでしょうか?
一体何から救われることを問題にしているのですか?(さとしさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141126/1416989957#c1417045623

救われるとは、生死を離れて阿弥陀仏の浄土に往生し仏になることをいいます。ですから、救われないとは生死を離れられず、浄土往生できないことです。


親鸞聖人が何から救われようとされていたのかについては、恵信尼文書に「生死出づべき道」と書かれています。

法然上人にあひまゐらせて、また六角堂に百日籠らせたまひて候ひけるやうに、また百か日、降るにも照るにも、いかなるたいふにもまゐりてありしに、ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひし(恵信尼消息)

親鸞聖人は29歳で比叡山を降りられて、法然上人にあわれました。それから、六角堂に百日篭もられたように、また百日間、雨の日も晴れの日の、どんな嵐の日も通われて、生死出づべき道を聞き求めていかれました。

そこで「生死」について、どういう意味か「浄土真宗辞典」から紹介します。

しょうじ 生死
有漏の業によって三界・六道の迷いを生まれ変わり死に変わりして輪廻すること、あるいは迷いの世界そのものを指している。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

その意味では、「悪い状態」というよりは「迷っている状態」ということが出来ます。救われるというのは、迷った状態から離れることであって、何か外敵から救われるということではありません。


迷っているということは、具体的にどういうことかと言えば、生きること、死ぬことの意味も分かない状態です。その意味で、自分はなぜ生きているのだろうとか、死んで行くのだろうと思いながら人生を過ごすというのは、とても可哀相なことです。どんな人生であったとしても、自分にとっては掛け替えのない人生ですから、「こんな人生では悔いがある」と虚しい悔いを残す人生では自分がかわいそうです。自分の人生を合掌して終わっていけるような人生であるべきではないでしょうか?
阿弥陀仏は、それを可哀相だと思われて本願を建てておられます。


「いや自分の人生はこんなものなのだ。それで十分だ」と思われる人もあるかもしれませんが、阿弥陀仏は生死を離れて、浄土往生することが、「空しく過ぎない」人生だということで「ただ今救う」という本願を建てられています。ただ今救われるとは、生死を離れて、浄土往生し仏になるに定まるということです。ただ今救う本願にただ今救われて下さい。


続きます