安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「47 現世祈祷の教策」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

47 現世祈祷の教策

古来より浄土真宗では、雑行雑修ということを、偏屈に執じこみ、現世祈祷を極端に嫌い過ぎて。有る善根も無くしてしまいの、したい祈祷もやめておれのというて。夫れが為却って信仰の本意を失い、布教の道も窮屈に陥ってあるかと思われます。


成る程第十八願の正意、出離解脱の大望を成就する、教義に於いては。現世の幸福を祈ることや、自力雑善の有る無しということは、毛頭用事のあるべき訳はなけれども。その信仰の奥の院まで、単刀直入に飛び込むことの出来る、御客は誠に不足にして。頓機は稀で、漸機の多いものなれば。その漸機を導くのが、布教上、最も肝要なので、而も骨の折れるところである。高い山に導くには、必ず低い所より運ばねばならず。奥座敷に座らせるには、必ず門口より導かねばならぬは、当たり前である。


これに依って御本願の当面より伺うて見ても。十八願へ弘願直入の出来ない漸機の為に、十九二十の要門真門の二願が、設けられてあることは。諸機誘引の方便たる、至極大切の本願である。然るに兎角真宗の勧め振りは。入り口も通さずに、奥座敷へ連れ込むか、ただしは、低い道を踏ませずに、高い山へ登らすような、傾きがありがちで。何ぞといえば、夫れは雑行じゃ捨ててしまえ。祈祷は雑修じゃ、してはならんと。意味も方角も解らんものを、厳しく戒めてしまうものゆえに。初心のものは逃げてしまい、聞きなれたものは間違うてしまい、表向きだけ、祈祷でもやめておれば、夫れで顔の立ったような考えを起こしておるは、甚だ残念のことである。


子供を育てるにも、子供は何の意味とも知らずにしておる事を。無闇に叱り飛ばしては、却って子供を偏屈にしてしまうようなもので。夫れでは教育とも言われず、御化導とも、御勧化とも、いわるるものではない。化導とか勧化とういう、化の字には、中々重大の意味のあることで。孵化、変化、転化、開化などというときの化の字。権化教化というときの化の字には。バカスとかダマスという、大いなる方便手だての要る訳のある文字で。法律や規則見たように、方便も手だても更にない教えなら。化導でも勧化でも何でもない。


仮に、説教の仕方にしても、化かして導くという上に於いては。或る程度までは、節談もよし、因縁談も必要である。私は真宗の某教団で、安心の話しなんどは微塵もなく。節と因縁ばっかりで、満堂の聴衆を泣かせて御座る布教者を見て、実に感心したことがある。とても我々では真似でも出来ぬ技術を以て、御講師様でも引き寄せるけとの出来ない、機類の聴衆を沢山に集めて。真宗の門に入らしめて御座る御手際は。これこそ一種の御化導を、十二分に発揮してあるものと、恐れ入りました。


然るに自身で真似の出来ないことを、負け惜しみでいうのでもあるまいが。節談は厳禁すべし、因縁談は野鄙である。神精なる信仰を伝えるには、如何にも森厳に説かねばならぬなどというて。乾燥無味の音調で、済まし切って御座る御方もある。夫れも一種の御化導に違いはないが。水清ければ魚住まずの譬えもある。そんな御品のよい説教ばっかりで、この平民教たる、在家教たる、無智教たる、真宗の大法が護持の出来るものであろうか。政府でせえ、民力涵養や芋飯を勧めるに付けては、浪花節や活弁を利用することを知って御座る。まして出離の大事を導くべき大導師たるものは。偏屈の内輪争いは厳禁して、互いに戒め、互いに利用して。この大法を弘むる上にはあらゆる手段を採って、進まねばならぬ事と思います。


依って現世祈祷の如きも機類に依っては或る程度まで大いに許すべしという覚悟を以て進んだ方が、布教開拓上兄よりのことであろうと思われる。天理教や大本教が未来の話ばかりをしておる、教えであったなら。今日の繁昌はとても見ることは出来ないのじゃ。仏教の各派に於いても、信仰の奥の院はそれぞれ別として。まずその門に導くには必ず現世祈祷の看板を用いてある。


この現世祈祷の看板を、先としておるもの故に。丸で無教地へ押し出して、教線を張るときは。真宗より、遥かに長足の進歩を認めらるるようである。私の壇中に大病を患うて、祈祷はしたいが真宗では禁じられてあるから。日蓮宗から祈祷して貰うて、題目を唱えて全快した。それで自分一人は生涯題目を唱え通して、死んで日蓮宗から葬式を行うて貰うたものがある。


題目で治るなら、念仏で治るは請け合いじゃもの。なぜ念仏でこの人を繋ぐことが出来なかったであろうか。念仏で繋いでおけば、いつかは第十八願に導く方便ともなるのじゃに。題目へ走り込ませてしまっては、何とも導くようがない。これが真宗で祈祷を厳禁してある弊害で、アダラ御客を逃がしてしまうようになるのじゃ。貞信尼がこの念仏を現世祈りの方面より説き勧めて。無心のものを信仰に導いた事跡が沢山ある。


依って私は病気平癒の御経を頼まれたことがあったが、快諾して読んでやりました。多少功徳のあることは、確信しています。それで治らんときは本人が黙っておるし、治れば喜んで礼に来る。礼に来るほどになればそろそろと本願の大道へ引き込む、手づるがあるというものじゃ。


現世祈祷に来る程のものを、急に第十八願へ導こうとしても、駄目である。夫れを真宗では、祈祷の御経は読めないなどとはね付けてしまえば導く縁は切れてしまう。しかし公然と祈祷を許してしまったら。又夫れに傾いて大いなる弊害も起こるであろうから、禁じてもおかねばなるまいが。随分その辺の呼吸は難しいところで而もそこが御化導の御化導たる、大手練の要る所であろうと思われる。


依って私は飽くまで祈祷ということを嫌わずして信心を以て絶対の大祈祷であることを、大いに吹聴したいことである。その上は改めて祈祷をする必要もない代わりには。時と場合に依っては、何事をしても、信心決定の人ならば。雑行雑修になる気遣いは、決してないものと確信しておる次第である。