安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「32 この世へ出るには」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

32 この世へ出るには

 お話しの糸口を改めて、これより皆様に、浄土真宗の極楽参りの筋道を、大体の形の上よりお話しをして見たいと思います。
 
 
 信心の安心の、一念の後念の、自力の疑いのと申せば、仲々難しいことのように思って御座るのは。兎角文字や言葉に拘泥して、大体の筋道が御飲み込みになってないもの故に、心得易い信心が、心得難い心配となって来るので御座います。
 
 
 当流の御教化は何も難しきことはないので、大体の目的からいって見れば。浄土へ生れて仏になるという、問題は大きいが筋道は明瞭なので。その浄土へ生れて仏になるには、どうすればよいかというのが今日のお話しである。
 
 それについて論語という書物の中に。
『未だ生を知らず焉んぞ死を知らん』。
といってある、これは子路という孔子の御弟子が、ある時『敢て死を問う』。と。
 先生吾々は死んだら、どうなるものでありますかと尋ねられた。その時孔子の答えられたのが今の言葉で、その意を味わって見ると。死んだらどうなるものかとは、余りに行きすぎた尋ねである。
 未だ生を知らず、汝は未だ生れて来た訳さえ解ってないものが、焉んぞ死を知らん、何として死んで向うのことが解るものか。死んでの向うが知りたくば、先ず生れて来たことから究めて見るというこころ。成る程御尤もの話しであります。
 
 
 皆様も浄土へ生まれて仏になるは、死後の問題で解らん話として見れば。解らん話は、解る方から考えて見よ。浄土へこそは生まれたことはなけれども、人間に生れたことだけは請け合いのお互いなれば。浄土参りの話はあとにして、先ず人間に生れたことから考えて見て下さい。お互いはどうして人間に生れたのでしょう、これは前世に五戒を持てる功力に依って、生れたのじゃという評判であるけれど。五戒を持ったか御粥を食べたか、それは我等の解らぬことゆえに、先ず解った部分だけで味わって見ると。
 
 
 上は王侯紳士より、下は田夫野人に至るまで、この世へ生れ出るに付ては、必要欠くべからざるものは親である。親の腹を借りねば誰でもこの世へ出ることは叶わぬ。今日御集まりの皆様方も、残らず親から生んでで貰ったので、木の股から出た人などは、一人もあろう筈はない。さてその親の腹を借りてこの世へ出るとしても、その親の善かったと悪かったでは、生れた上に於て大いなる違いがある。
 
 
 金満家の親から生んでもらった子供は仕合せで、生れたその日から不足なく。絹や小袖に纏われて、乳母や女中にかしずかれ、蝶よ花よと育てらるるも、親取の善かった為である。それに引き換え、もしも乞食非人の腹でも借りて、生れた子供は気の毒や。生れ出ては見たものの、家も着物もあらばこそ、これも親取の悪かった御蔭である。
 
 
 しかしお互いの我々は、貧富貴賤の隔てはありても、先ず人間という親の腹を借りて出たから、労せず難儀せず我身も人間というものになられたが。一歩転じて考えて見ると、同じこの世へ出るにしても、馬や牛の腹を借りて出たら、今頃は何というものになっておるのでしょう。それは解りきった事で、馬の腹からは馬、牛の腹からは牛、猫も鼠も鳥も虱も、必ず親と同じものが生れるというが、天地間のきまりであるから。何処へ行っても鼠が馬を生んだの、牛から鳥が生まれたの、ということは決してないことである。
 
 
 そこでお互いは喜ばねばならぬ、同じこの世へ出たにもせよ、馬や牛であったなら、生涯人においつかわれ。難儀の果ては打殺され、皮は剥がるる肉に喰われる、イヤハヤたまったものではなかったに。万物の霊長たる、人間というものの腹を借りて出た御蔭に、五十年無事に送らせて頂くのみか。犬や猫なら聞くこと出来ぬ、後生の一大事を聞かせて貰い。鳥や翅(つばさ)では頂くことのならぬ、他力本願を頂くことの出来るのも。偏に人間というものに、生れさせて貰うたればこそ。ここを源信和尚は。
『まづ三悪道をはなれて人間に生るること、おほきなるよろこびなり。身はいやしくとも畜生におとらんや。家はまづしくとも餓鬼にまさるべし。心におもふことかなはずとも地獄の苦にくらぶべからず。世の住み憂きはいとふたよりなり。このゆゑに人間に生れたることをよろこぶべし。 』。
と仰せられた次第である。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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