安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「因果の道理(自因自果)からすれば、大したことをしていない私は、救われる事は無いのでしょうか?」 (頂いた質問)

「因果の道理(自因自果)からすれば、大したことをしていない私は、救われる事は無いのでしょうか?」 (頂いた質問)

何か善い事をしなければ、救われないという考え方は間違いです。なぜならば、阿弥陀仏が私を助けるに上で私が過去に何をやったかを考慮されないからです。

例えば、最近熊本県で地震がありました。そこで自衛隊や消防隊によって多くの人が救助されました。その時に、救助する人が、救助される側の人の過去の行為を見て、助けるかどうかの判断をしたでしょうか?

具体的に言えば、この人は過去に「親に死んで欲しいと思ったから助けない」とか、この人は過去に「仏法を聞かないと思ったから救わない」という事はありません。


なぜならば、助ける側の人がなぜ助けようとするのかと言えば、助けられる側が現在困っているからです。先の熊本の地震で言えば、家の下敷きになって自分の力で出ることができないとか、あるいは避難所にはきたけれども何も食べるものがないと言う状況を見て助けようと思うのです。


つまり、救助される側が過去にどのような行為をしたかとをみて、助けるかどうかの判断をするのではなく、現在の状況を見て助ようとするのです。
それと同じように、阿弥陀仏があなたを助けようと思うのも、あなたの過去の行為を見て良いところがあったから助けようと思われるのではありません。また、悪いところを見て助けるのはよそうと思いのでもありません。現在のあなたが自分の力ではどうしても救われることがないという状況を見られて、何とか助けたいと思われるのであります。


その意味から言えば、現在自分でどうしようもない状況にあるあなたは、阿弥陀仏の救済の対象です。 絶対に外れてはいません。
それにもかかわらず、なぜあなたが現在阿弥陀仏に救われていないのかと言えば、阿弥陀仏の仕事である「あなたの救済」を自分の仕事だと思っているからです。
本来ならば、助ける仕事は阿弥陀仏の仕事です。それにもかかわらず、助ける仕事を自分の仕事のように思っていられるのではないかと思います。
別のことで例えると、野球で延長戦11回まで投げて受けた先発投手が、どう考えても投げ続けられないのに救援投手にマウンド譲らないようなものです。

アメリカでは、100球ルールというのがあり、大体100球投げると投手は交代しなければなりません。
自分の力ではこれ以上の投げられなければ、普通は救援投手にマウンドを譲ります。

それにもかかわらず、マウンドを譲らない先発ピッチャーがいるとすれば、その後の試合の結果はどうでしょうか?その試合は確実に負けるでしょう。
この状況において先発ピッチャーが救われる道は、救援投手にマウンドを譲る事です。なぜならば、先発ピッチャーにとって大事な事は試合に勝つことであって、完投することではないからです。


この例えでいいますと、試合に勝つという事は救われることであり、完投する事は自力で救われる日を追求し続けるということになります。
そうなると、完投すること自体に何の意味があるでしょうか?
完投したいだけと言う気持ちを貫いて試合に負けるピッチャーがあるとするならば、目的違いと言われて当然です。
阿弥陀仏は、上記のような野球でいえば、もう先発ピッチャーに投げてもだめだから変われと言っている監督のようなものです。
監督がピッチャー交代を告げるのは、これ以上続けても試合に勝てないと判断したからです。


同じように、阿弥陀仏が「私にそのマウンドをまかせなさい」と言われるのは、過去の貴方の行為ではなく、現在の貴方の姿をみられてのことです。
救済に関しては、貴方は主役ではありません。マウンドを阿弥陀仏に譲ってただ今救われて下さい。