阿弥陀仏が私を救うとき、「阿弥陀仏が放たれるもの」であり、私が「その中に摂め入れられるもの」であり、「その縁にあわなければ救われないもの」であり、「その縁にもよほされて信心を獲るもの」
であるということと今ひとつつながりません。蓮如上人は救われた人にわかることとして言われているように読めるのですが
違うのでしょうか?(Kさんのコメント)
コメントの文面からしますと、以下のような事かと思います。
- 阿弥陀仏が私を救って下されるその時まで阿弥陀仏が放たれていないものが有る。
- 阿弥陀仏が私を救うときに放たれるものがある。
常に私を照らして下されるお働きがあるなかで、私が助けらる時だけ放たれる特別な光明があるのではありません。阿弥陀仏は、十劫の昔から私を助けようと働いておられるのですから、昔から光明に違いはありません。
光明は昔から働いていても私の方で分からないだけです。阿弥陀仏に救われてそれが分かるので、私の方から見ると「阿弥陀仏が放たれる」とか「その中に摂めいれられるもの」といわれます。
無明の闇を破するゆゑ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまへり(浄土和讃11)
阿弥陀仏の私を助けようとお働きが分からないことを無明の闇といいます。その私を助けようと働かれ、私を助けて下されることを無明の闇を破するといわれています。
「無明の闇を破する智慧光」が、その時だけ初めて放たれるから無明の闇が破れるのではありません。私の側から見れば、それまで無明の闇に覆われて分からなかったのです。
「その縁にあわなければ救われないもの」であり、「その縁にもよほされて信心を獲るもの」といわれるのは、常に私に働き続けられる光明の縁がなければ救われないということです。常に働いておられる光明にプラスして何か特別な働きが加わるということではありません。