安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「29 信心あって名号なし」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

29 信心あって名号なし

 この真実信心必具名号ということについて、皆様に聞いて頂きたい実談がある。それは北越にあった話で、今日でこそ越後も大略汽車はつきましたが、二三十年以前に汽車のなかった頃は。蒲原の大原野を横切っておる信濃川というのが。新潟より二十里ばかりも汽船が上るので。これが唯一の交通機関でありました。
 
 
 頃は明治二十年前後のことで、御本山において、両堂御再建の用件で。御差し向けの御使僧が、何人も越後へお下りに成ってある。姓名や月日は忘れましたが、一人の御使僧が。加茂新田というところより新潟の木揚場、今の説教場へ御移りになるとき。大事の汽船に乗り遅れ。六里あまりの道のりがあるので、困って御座るところへ。幸い新潟へ下る荷船があって、夫れに乗せて貰うて見たれば乗り合いの客が五六人もある。その中に五十ばかりの男が、しきりに御法義の話をして、乗り合いの人に聞かせておる。

 
『一念と後念の水際が大事じゃとかたのむと信ずるの違い目はここじゃとか。いや二字がどうで四字がどうじゃの。従法向機の勅命の場合は、かくなれど、従機向法の受け心は、振り向く一念じゃ』
のと話は甘いが、いかにも憍慢の気分に満たされてある。舟は下って止まざる如く、話は中々果てしはつかぬ。それを聞きかねて御座った今の御使僧は、船頭に向かい。
『もう加茂新田から二時間も経つが、何処まで来たなあ。』
『ハイ最早四里ばかり下りましてあちらに見える松の森が、鳥屋野の西方寺で有ります。』
『それはなつかしい、祖師聖人の御旧蹟。先年も参らせて貰うた逆さ竹、この度も御参りをして行きたいから。程よいところへ、舟をつけてくれ。そして荷物だけは預かって、面倒でも新潟の木揚場まで届けてくれ。私は是から徒歩でゆくから、これは僅かな駄賃じゃぞ。』
と仰るので。船頭はやがて西方寺の岸へ舟をつけた。


 そこで御使僧は、乗り合いの人々に挨拶し、殊に今の男に向かい。さて御同行、長々の御話し、よう聞かせて下された。しかし此の世の舟には、不思議の御縁で、お前とここまで同船はして来たが。未来の舟には、とても同船出来ないから、是で御暇申しますと、言い捨てて御使僧は上がって行ってしまわれた。
 
 
 今の同行は、胸に打たれた五寸釘。痛い思いは有ったか無かったか。そんな事に頓着なさらぬ御使僧は、ゆるゆる御旧蹟を参拝し。二里の道をばブラブラと、夕方木揚場へ御着なされ。湯浴を済ませて気持ちよう、夕飯の御酒を飲んで御座るところへ、給仕が参って御取り次ぎ申すには。ただ今同行が一人見えまして御使僧様に御会いしたいと申しますから。何方で御座ると尋ねたれば、今日加茂新田より鳥屋野まで同船して来た同行じゃと申しますが。如何致しましょうかとあるので。御使僧は、フム、天狗がやって来たなア、暫く待たせておいて、御膳が引けたら案内せよと申された。
 
 
 やがて御飯もすんだので、今の同行はお座敷へ案内せらて、慎んで御挨拶を申し上げ。
『サテ今晩突然御邪魔申したも、別儀ではありません。先刻鳥屋野でお別れのみぎり、御申し残して下された、御一言実に有り難うございました。夫れについて私が船中で御相続申した話の数々。定めて当流の正意に、叶わぬところがあったればこそ。此の世の舟には同船しても、未来の舟には同船できぬと。御誡め下されたものと思うて見れば、出離の大事、捨て置きがたき思いより。御疲れの中をも顧みず、御伺い申した訳でありますが。何卒私の間違うてある点を、幾重にもお聞かせ苦打差手体ことであります。』
と申し上げると、今の御使僧は。
『イヤ御同行、舟の中のお前の話は、当流の正意御化導そのまま更に間違いはなかったようじゃのウ。』
と仰ると同行は進みいで。
『当流の正意であるものを、未来往生の同船がなるとは、どうした訳でありますか。』
と問いかけるので、御使僧は軽く答えて。
『そーじゃ、御文や御和讃も当流の正意に違いはないが、まだ一冊も往生した話は聞かんぞや。』


同行。
『御文や御和讃は紙に書いたもので、心の無いもの、夫れがなんで往生いたしましょう。』
御使僧は。
『そーじゃ御同行。お前の御正意も、口に掛けたまでのもので、心に頂いてないものがまさか往生出来まいぞや。』
と仰られる。


今の同行は膝を立て。
『是はけしからん、私は心にないことは聊かも申しません。自分の信じた有りだけを話したもの。夫れを私の心にないとは。』
といわせも果てず御使僧は、大喝一声。
『ダマレ同行、この邪見者めが。汝はなあ、関屋渡りの船中をもはばからず、仏法方の讃嘆をするなと、きついお誡めのあるにもかかわらず。今日のて体たらくは何事ぞ。人の嫌気も斟酌せず、一人舞台の高慢話。事実御慈悲が貰われて、喜びの余り、禁戒を破ってまでも出るものなら。話のかわりに、称名が先達たねばならぬのじゃ。然るにどうじゃ、加茂新田より鳥屋野まで、二時間余り四里の道。汝の口より真実に、称名念仏の顕れた、声は一度も聞かなんだ。夫れが確かに汝の心へ、貰われてない証拠である。盗っ人猛々しいとは汝のこと。まだも理屈や我慢を透すなら、同船どころか、同席さえも相成らぬ下がれ下がれ』
と厳しく御叱りなされたところ。今の同行は喝破と打ち伏し。
『あやまりました御使僧様、どうぞ堪忍して下されませ。邪見を邪見としらずして似非法門の高上がり。後生大事と口先で、尊師に議論を戦わし。勝ってみせようの悪巧み、残らず露顕と見抜かれて、きついなさけの御切諌。今は邪見の角も折れ、我慢の腰も抜け果てて、泣くより外はありません。』
と真から底から慚愧の色をあらわして、その夜は帰って行きました。これが即ち信心ありとも、名号を称えざらんは詮なく候ふと仰せられた。御聖訓に的中申した、間違いの同行と申すものであります。


 しかし今の同行は、その後丸々心を入れ替え、御使僧の新潟滞在中は、一日も欠かさず御育てを蒙り。夫れより以後は、法門義門の讃嘆は、生涯一度も口に出さず。ひたすらに称名念仏して、信心の色を増し、如法如実の信者となられたという話である。