※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。
11 たのむと称うるの価値
然らば本願の三信十念、たのむものを迎えとるぞとの勅命を。どのようにかみ砕いて味わえば、よいかというに。おおよそたのめ助けるの仰せを聞いて。たのまにゃならんと頭から、丸飲み込みにするゆえに。たのむ一念が胸につかえて、いつも癪の種となるのじゃから。先ずたのむということ、助けるぞよということを。暫く切り離して見てください。
称うるものを迎えとるの仰せも同じこと。称えにゃすまぬと、丸飲み込みにすると、忽ち留飲病になるゆえに。これも称うるということと、迎えとるということを切り離しておいて。それからそのたのむのと、称うるものという。勅命の頭の堅いところは、二つながら甲の器にいれておき。次に後へ残った助けるぞよ、迎えとるぞよ、の勅命の尊いご馳走は共に乙の器にいれておいて。
サァ是から、両方の器のご馳走を、そろそろと吟味して御覧なさい。先ず甲の器に入れてある、たのむということは誰がたのむのでありますか。まさか阿弥陀如来や諸仏菩薩がたのんで下さるのではあるまい。われらごときの無善造悪の凡夫のうへにおいて、阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり*1
http://goo.gl/SyuU2yとあれば我等衆生の心の上に、たのむことに相違ない。我々の心のうちで、たのむものとしてみれば。どのようにたのんだとうして見てもたのむということは、抑値打ちの有るものであろうか。
若し値打ちが有るものならば、私は早速皆様にたのみます。何をたのむか、私は後生などという大問題はたのまねども。近頃困っておる、千円あまりの借金をたのみます。誰か返済して下されませ。一度で足らねば二度、二度で足らねば三度でも五度でも百度でも千度でもたのみます。自力だのみで悪ければ、誰ぞ返済してやると仰れば、他力だのみでも何でも致します。サァ誰か返済して下されませ、サァサァ返済どころか、余りたのんだら皆様はあきれて、お逃げなさるのでありましょう。
若しも返済して下されたとすれば、その返済して下された方にこそ、値打ちは確かにあることなれど。たのんだ方には、一文ぶりの値打ちのあるべき訳はありますまい。全体ものをたのむということは、値打ちも実力もないもののすることで。私の如き貧乏物に限って、時々檀中にものをたのむ、たのめばたのむほど、自己に値打ちのないことが分かります。
今は千円や二千円の話でない、無量永劫の出離の大事。無善造悪の我々が、汗を流してたのもうが、油こぼしてたのもうが。泣いて叫んでたのんで見ても、我等のたのんだところには、何の値打ちが有りますか。紙くず買いでも値踏みをせず、逃げてしまうが我等のたのみでありましょう。
称うるというも同じこと。衆生称念とあるからは、諸仏が称揚なさるのではない、我々の口で称うるのじゃ。嘘をいうたり魚食う、臭い臭いこの口で。南無阿弥陀仏を称うれば、何の値打ちがありますか。称えられたる御六字には、無上甚深の値打ちがあるにもせよ。称えた手元の能称の、口の仕業には、毛厘の値打ちの有ろう訳はありますまい。
そうして見れば、甲の器に容れてある、たのむと称うるということは。我々のすることとして見れば。何程たのんでも称えても、不幸にして、一厘一毛の値打ちの有るべきものでないことは明瞭であります。
次に乙の器に容れて有る、ご馳走はどうでしょう。助けるぞよ、迎えとるぞよ。この御一言は何程の金を出したら、聞かれるものでありますか。百億万両の金を積んでも又とあるべき勅命ではありますまい。
聞かれぬばかりならよけれども。大蛇と見るとも女人は嫌い、鬼に会うより悪人は嫌じゃと、哀れ悲しい評判ばかりで。夢にもいたずらにも、助けるなどと愛想懸けての尽き果ててある私を。大悲招喚の親様一人必ず助けるぞと呼んで下された喚び声は。只の一言のことなれど、この一言の喚び声を、たてて下さるそれまでは。五劫永劫の命がけ、御難儀なされたその結果。捨てた諸仏の真ん中で、弥陀は必ず助けるぞと、喚びかけなられたこの仰せ。値打ちは無量無辺にて、無碍や無対や炎王や清浄歓喜智慧不断、難思無称と日や月の。天にも地にも並び無い、尊き限りのご馳走が、助けるぞよの勅命である。
サァ皆様よ、ここまで本願の御喚び声を噛みしめて味おうて見ると。たのむと。称うるということは、一文ぶりの値打ちもないので。千両万両に替えがたい、値打ちのあるのは、たすけるぞよの勅命である。
然るに、ここまで聞き明かさずして、只一応の聴聞をしておる人々は。何の値打ちもないものに、うんと値打ちを張り込んで。値打ちに限りのない御助けは。何処にも有り余る仰せの如く軽く見て。たのみ一念が大事である、称うる手元が肝要である。いや称えずともたのもさえすればよいのじゃ。いやたのんでも、自力だのみでは用事が足らぬ。いや親心に夜明して、一心に御助け候へと、振り向く心がどうじゃのと。
いやなところに力を入れて御座る様子は。いかにもたのむ一念さえ出来上がれば、御助けなどは当たり前で。いつでも棚からころころと、転んでくるような安い御助けと、思うて御座るのじゃ。これが丸々勅命の値打ちを踏み違い。要らざるところに骨を折り、たのむ一念出かして見ても。大事の御助けが、ころがって来たか、来ぬかが解らぬゆえ。生涯我が機に難儀して、遂に異解や異安心に傾くのじゃ。
そこでたのむというも値打ち無し、称うるというも値打ちなし。何の値打ちのないままで、弥陀は必ず助けるぞよが、本願の思し召し。これを法然上人は、易の徳なりと御讃嘆なされ。易の徳というは、容易い徳のこと。何が容易いというたとて、称うる程容易いものはあるまい。その称うるよりも、また一層容易いのは、心でたのむ一念である。
こんな容易い値打ちの無い、たのむばかりや称うるだけで。極悪深重の我々を助けてやるぞよと仰るは。頂く衆生に世話や面倒させてはすまん。面倒なしにこの弥陀が、助けてやるぞの御誓いが、三信十念の御約束。
その面倒なしの世話いらぬ、容易い仰せを面倒に受けて。たのむや称うるに世話をやき、今日まで迷うて心配したは。大事の値打ちの御助けが、心へ届かぬからである。
届かぬ昔に引き替えて、今は本願の喚び声の値打ちの在りかを聞いてみりゃ。たのむ称うる値打ち無し、値打ちの更にないもので、助けてやるこそ値打ちもの。こちらの値打ちが露塵もなけりゃないほど御助けの値打ちは一つ限りなく。量り知れぬ御手柄が、遠い浄土に有るのでない。近い六字の御助けが、心に届いた一念に。至心信楽己を忘れ。苦しいたのみの重荷を下ろし、楽なたのみとあらわれて。偲びかねたる御念仏、申す口さえ恥ずかしや。
かかる容易い本願に、不足並べてきたことの、勿体なやと懺悔して。暮らす後念の相続は、御恩に傷のつかぬよう。手の舞い足の踏むところ、無理や非道のないように。この世を目出度う送るのが、念仏行者の大事の勤めというものである。
*1:御文章4帖目6通