安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「23 切符は狂人の沙汰」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

23 切符は狂人の沙汰

 第三には切符がなくは乗せられぬというような話しにして見ると。真実大悲の親様を、丸で無茶苦茶にして仕まいますぞ。すべて切符がいるというようなことは、営利業(もうけづく)にこしらえた汽車や汽船のいうことで、ツマリ銭を出して乗るものに限る話しである。
 
 
 切符などといえば皆様は、別物のように思うて御座るようであるが、彼れは銭を払うた証拠に渡すまでのものであります。たとい金銭を出さずに乗る船であっても、切符がいるというならば。客に択(えら)びのあるときのことで、乗せられる客と、乗せられぬ客の、隔てのある場合である。無賃の乗合船や親が仕立て迎(むか)いによこした船に乗込む場合に於て、切符がいろう訳はありません。
 
 
 抑も阿弥陀如来が、大願弘誓の仕立船、御成就下された思召は、迷いの衆生を乗せて渡して駄賃をとって。それで浄土の活計(くらし)をつけ、残りがあったら十方諸仏と利益配当を致そうという、株式組織の弘誓の船ではありません。可愛衆生の独り子じゃ、迎いとりたい親心より、態(わざ)と仕立て成就して。さしつけられた船じゃのに、乗込む衆生に切符がなければ乗られぬ抔(など)と申しては、実に大悲の親様を損のうて仕もうことになりますぞ。
 
 
 皆様よ篤と味おうて見て下さい。いとし独りの娘子を、木曽川の向いに縁付けてある。今日は実家に花見の宴、子供を連れて来る筈じゃが。僅か河一本のことなれど、其処に渡船がないために。上へ廻れば一里半、下へ廻れば二里もある。
 
 
 そこで母親が心配し、下男の権七に申付け、船を仕立て娘のもとまで迎いにやった。娘は大いに喜んで、是は権七ようこそ迎いに来てくれた、さらば是より参りましょうと。子供を連れて荷物を持たせ、河の岸までやって来た。そこで権七船をととのえ、サア姉さん静かに乗って下さいといえば。娘は急にうろたえ出し、袂や懐中手風呂敷、あちらこちらと尋ね初めた。様子を怪しむ権七は姉さん何んぞ御忘れ物でもありますか。
『いや何んの忘れ物はなけれども、切符がなくて困ったよ』。

 
 ナント皆様ここまで行っては、実に狂気の沙汰と申さねばなりますまい。今は大悲の親様が、可愛衆生の独り娘、浄土の花見に招きよせたいは山々でも、僅か三途の河一本に隔てられ、上へ廻れば死出の山、下へ廻れば三僧祇。三毒五欲の手荷物に、罪や障りの子供を連れて、難儀するのを気の毒に思召し。五劫永劫仕立船、善知識の御使いで、乗せて渡すの御迎いに。あずかった娘が此私(わた)し、乗込む一念の場合に於て、切符がいるとは恐入りたる次第である。


 ここで面白い云い訳する人がある。

 成程他力ずくめの弘誓の船じゃから、銭を出したり心配して、求めるような切符は元よりいろうかや。南無とたのむ切符まで、大悲の親様より御廻向下さるることなれば、衆生のかたには何んの御世話もいらぬのじゃ。

と曰(いわ)せておけば勝手次第の話しが出る。
 いらぬ切符の遣場がなくて、大悲の親に罪をきせ、切符まで親様より下されたとは何事である。娘を迎いにやる親が、舟の外に切符までこしらえて、先ず娘に切符を渡し、それを受取ったら乗せて来い、若(もし)切符を受取らなんだら、空舟で帰れというのか。それでは親の方が気違になりますぞ。舟で迎いにやる外に、切符まで添えてやる必要がどこにありますか。皆様よ大概のとこに御呑込がしてほしい、此度の往生には確かに切符はいりませんぞ。
 
 
 然らば弘誓の舟に乗込むには信心がなくともよいというのか。一寸御待ちよ。拙者は切符はいらぬと断言(ことわ)ったが、信心がいらぬとは未だ一言も申しませぬぞ。切符はいらぬが、信心は必ず要ります、信心がなければ浄土往生は出来ません。ここが肝要のところですから、次席を待って聞いて下さい。

続きはこちらです。
以名摂物録(松澤祐然述)「24 乗込んだが南無」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録