安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

日々知らされることは何か?(たかしさんのコメント)

私も具体的にというところが気になります。
例えば、私たちの日常生活においてどのように受け取る事ができるのでしょうか。

日々自分の言動に反省するような事も多々ありますが、
そのように気づかされる事が息絶えるまで続くことが智慧の働きなのでしょうか?(たかしさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100313/1268429103#c1268441174

具体的にといえば、エントリーで紹介した。ご和讃が具体的です。

無碍光如来の名号と かの光明智相とは
 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ(高僧和讃47

阿弥陀仏の智慧の光明によって、私の無明の闇を破って下さり、往生浄土の身に救って下されるということです。

それ以外に、日常生活においてどうなるかということですが、日々の生活上は何か具体的に変わるのでしょうか?ということだと思います。

阿弥陀仏の本願に疑い晴れているのが、信心です。救われたと言ってもそれ以外の点で何か具体的に私に内的な変化が起きたことではありません。
煩悩具足の凡夫といわれる姿は何も変わりません。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文

二河白道の譬えで、旅人が西の岸に渡りきるまで、水の河、火の河の波がまったくかわらないとあらわされているように、死ぬまで欲や怒りの煩悩、愚痴の心は多くひまなく、臨終の一念までかわりません。

何が変わるのかと言えば、欲や怒りの心は変わらないのですが、常に働きかけ、呼びかけられる南無阿弥陀仏を喜んでいるだけです。日々気づかされることは、個人差はあると思いますが、阿弥陀仏のことを思わされるのです。
自分の言動を反省するのは、智慧の働きというよりは、自分自身の罪悪観の問題と思います。智慧によって自己反省が深まるのであれば、阿弥陀仏に救われた人は一様に、頭の低い人ばかりと言うことになります。しかし、煩悩が変わらないと言うことは、頭の低い人は低いままですが、頭が高い人は頭が高いままということです。

本願に疑心有ることないのが信心です。煩悩が変わるのが信心ではありません。