安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心決定すれば、苦しみは減るのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定すれば、苦しみは減るのでしょうか?(頂いた質問)

信心決定したら、苦しみは減るのかという点については、何をもって苦しみとするかによって答えは変わってきます。
例えば、どうしたら助かるのだろうか?とあれこれ考えても答えがみつからないことを苦しみだとすれば、その苦しみはなくなります。


また、経済的な苦しみや、病気の苦しみなど、人によっていろいろな苦しみがあります。そこで、苦しみを大きく分けると二つになります。
一つは、肉体的苦しみ。もう一つは、精神的苦しみです。

最初の肉体的苦しみに関しては、これは変わることはありません。例えば、病気による痛み、加齢による痛みは、病気が治ったり、若返ることがなければ治りません。阿弥陀仏に救われたからといって、それによって病気が治るわけではありません。また、若返ることもありません。よって、この苦しみは信心決定によって減るということはありません。


次に、精神的苦しみについて書きます。精神的苦しみといっても人によってさまざまです。
先に例にあげた「どうしたら救われるだろとか」とあれこれ悩む苦しみは、阿弥陀仏に救われたら問題にならなくなります。その点では、この苦しみは無くなるものです。


では、それ以外の苦しみについてはどうかというと、大きなものでいえば人間関係の苦しみについて書きます。精神的な苦しみの大半は、この人間関係の苦しみだと思います。しかし、「相手がいなくなれば」「相手が変わってくれれば」と思っていても、信心決定したことによってその望みが叶うものではありません。そういう意味では、信心決定によって人間関係の苦しみが無くなったり、減ったりすることはないと言えます。


しかし、人間関係の苦しみというのは、自分と相手があって起きる問題です。私が、自分のことしか、あるいは相手のことしか考えていないなら、生きている間は逃れることはできないものです。相手を変えることは出来ない以上、自分が変わればいいという意見もありますが、なかなかそれも難しいものです。とはいえ、阿弥陀仏に救われるということは、煩悩具足の凡夫であるということは変わりませんが、大きく変わることがあります。


それは、救いを求めるのも、常に自分中心で、自分が先手だったところから、阿弥陀仏中心で、阿弥陀仏の先手に変わります。これは、大変大きな変化です。阿弥陀仏の本願は、私が願うより先に、私を救うという本願を建てて下さいました。そして、南無阿弥陀仏となって私を常に救うと喚びつづけておられます。その阿弥陀仏による本願力によって救われるのですから、何をおいても、中心は私でも相手でもなく南無阿弥陀仏となります。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃)

と言われるように、本願力にあうひとは、空しく過ぎることはありません。なぜなら、南無阿弥陀仏と喚ばれるように、ただ今救われ浄土に生まれる人生となるからです。また、私の煩悩は変わりませんが、私を救うお働きは私のまわりに満ち満ちています。


いろいろなことが生きていればありますが、浄土に生まれる人生は、生きていることそのものが有り難いものです。長生きできてもできなくても、体が痛くも痛くなくても、いろんな人に出会っても出会わなくても、生きていることが有り難いという人生です。そういう意味では、苦しみは減りませんが、有り難いと思える人生となります。