安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「7 受け心と信の一念 」

前回の続きです。

7 受け心と信の一念

 段々とお話しを進めて参りますと。ここで皆様が、そろそろ不審が出てくるでしょう。成る程、信心というは御助けの届いたことをいうので、その御助けが、南無阿弥陀仏であるゆえに。南無阿弥陀仏さえ届いておれば、受け心はいらぬとして見れば。雑行すてて弥陀をたのむという形もいらず。疑い晴れて安堵決定した相もなくただ六字ばかりでそれでよい。殊に受け心は千差万別というときは、信相は丸で勝手次第ですむのか、という疑問も起こるでしょう。


 さぁここをよくよく聞いて下さい。その信相というのが、全くこちらから出すのではなく。貰った手ぬぐいに模様もあればはたらきもあるが如く。頂いた六字に、雑行すてて弥陀をたのむ模様もあり。たのむ衆生を助けるはたらきもあるゆえに。信相は勝手次第どころか、有我化すべからざる御改悔文の通りにあらわれて来るものである。しかし、それが実際に御助けが届かぬうちは、その信相のお話しは御預かりにしておいて。先ず御助けを頂くということに付いて充分にお話しをさせてもらいましょうが。何分受け心を信相と思っていて下さるるようなことではどこまでも間違いを醸すことになりますぞ。


 ある安心の小冊子に、某講師が同行に尋ねられた問答の中に。
『受け心は間に合うと思うか。もし間に合わぬとすれば、無念無想の安心になる。又間に合うとすれば、意業自力におちいるが、如何、心得てあるや』
と尋ねられた。
その時同行の答えに。
『受け心は間に合います。しかし間に合わせる心はござりませぬ。』
と申してある。
 問いも答えもただ恐れ入るばかり。私は愚痴のおかげで、何の話しか更に分かりません。受け心が間に合うとは、何の間に合うのか。浄土参りの間に合うというのか。もし受け心が浄土参りの間に合うものなら。金を貰った、貰い心が路銀になるか。然るに間に合わせる心はありませんとは、どうした逃げ口上である。現在間に合う受け心がありながら、間に合わせる心がないとは。極楽参りを見合わせにでもしたのか。又受け心が間に合わぬとすれば、無念無想になるとは、何たるおかしい話しである。受け心を間に合わせずとも、受けた路銀の大金が懐にあったら。いかなる人でも、まさか無念無想になっておれない訳でしょう。皆様はこの辺を何と味わって下さるるか、御安心の話というものは、こんなおかしなわからん話しで通るものでしょうか。


 お話しは通っても、心には通りますまい。無理に心に通しても、臨終には通れません。これがなにからこんなわからん話しが出てくるかと尋ねてみると。品物を受けずに、受け心を起こそうとするゆえに、面倒になるので。御助けを受けずに、信心を起こしにかかり、助けて貰わずに、たのみにしようとするから。受け心の稽古ばかりに、生涯難儀をせねばならぬ。御助け一つを確かに頂いて、大悲の親様に抱かれてしまえば。貰い心や、抱かれ心に世話もなく、安堵決定の信相は、自然に出来る。貰った品の御六字が、信心となり、安心となり。我ら一切衆生の往生の体となるので。受けた心地は、信の一念には、全く出し場はないのであります。

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以名摂物録(松澤祐然述)「8 受け心は受けた品に影響せず 」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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