安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「5 受け心は千差万別」

前回の続きです。
今回から読みやすくするために改行を加えました。

5 受け心は千差万別

 不思議のご縁でお話しをさせて頂きますが、何分にも五十年や六十年の短い話しではありません。無量永劫の末までも、助けて頂く一大事のお話しでありますから、幾重にも聴聞違いのないように願います。そこで当流の信心安心というは、何の難しいことはない。所信諸行のお助けの法が、我が機に届いた形をば、能機能信と名づくるので。一流安心の体は、受けた心地をいうのではなく、貰った六字の当体が、能機の信相であるゆえに。是を受け心と、受けた品に分別すれば。受け心の法ではない、受けた品を信心ということは、子細にお分かりになりましたか。


 さてこの上に、なおも聞いて頂かねばならぬのは。受けた品が同一でも、受け心まで同じくなるものではない、ということを必ず忘れて下さるな。世間の人々は同じ六字を頂けば、受けた心地まで同じ味になるように心得て。受けた心地の出し合いして、その心地ではいけないの、その思いでは参れぬのと、妙なところに争って御座る御方が、沢山あるように見受けらるる。是が大いなる間違いであります。


 そこで今日。皆様に対して私が、特別に染めさせた手ぬぐいを、一筋づつお土産として、差し上げるとしたところで。本当に差し上げるのではありませんよ。まぁ差し上げたこと、貰ったこととして考えて見てくだされ。貰った品は同じ模様の手ぬぐいでも、皆様の貰った心地まで、同一にあらわるる訳はありますまい。是は結構な手ぬぐい。知識よりこのようなものを頂くことは前後にもない。生涯大切にして仕舞っておこうかと、思う御方もあるであろう。又は娘にやろうと思う人も、使い物にしようと思う人も、いろいろある。中には、御僧分から一同に手ぬぐいを下さるなどは怪しいこと、是は定めて飯粒で鯛釣り主義で。こんなものを与えておいて、法礼でも集める一策ではあるまいか、と争っても致し方ない。


『どうじゃおかみさん今日の御座で貰いましたか。』
『何を?』
『手ぬぐいを!』
『はい私も幸い参って頂いて来ました。』
『どう受けられました。』
『ハイ尊き御方の下された手ぬぐいじゃから、大切に仕舞っておこう、と思っています。』
『そりゃおかみさん、そんな受けようではいけません。仕舞っておく位なら貰わぬも同様。私は今夜から風呂に使おうと思いました。』
『そりゃおやじさん、それではあなた尊ぶ思いが更にない。使う位ならどの手ぬぐいでも同じこと、知識より頂いた品ならば、大切にしておく思いでなければ済みませんよ。』
とこんな話をしていたら、百年やっても、まとまりはつかぬ。


 さぁ皆様方、信心安心は受け心のことじゃと勘違いして、つまらぬところに争っておりませなんだか。それでは御助けに片寄りすぎる、それでは能機が強すぎる。是では法体に陥る。それでは意業の分斉じゃと。受けた心地に腰据えて、詮議に苦心をしてみても、生涯安堵決定の立場は知れません。そこで受けた心地の詮議をやめて、受けた品をば出し合って御覧なさい。


『おかみさん貴女はどんな手ぬぐいを貰ったね。』
『はいこういう品です。』
『私もこれです。』
『皆さん同じ品ですね。』


 同じはずじゃよ与える手元で模様も生地も長さまでも、揃いに仕上げた手ぬぐいじゃもの、貰った方に違いのあろう道理はない。そこで貰い心の出し合いすれば、十人十色、百人百色でも、貰った品の出し合いすれば、十人一色、百人一色、更に違うところはない如く。受けた心地の出し合いやめて受けた品物を出してご覧。
 おかみさんの頂いた品も、南無阿弥陀仏、おやじさんの頂いた品も、南無阿弥陀仏。主人も、家来も、愚者も、学者も、喜ぶ人も、称える人も、称えぬ人も。貰った形に隔てがあっても、貰った品は六字の御助け一つ。

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以名摂物録(松澤祐然述)「6 信心諍論の所詮」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録