安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「9 頂く品は六字の喚び声」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。
前回の続きです。

9 頂く品は六字の喚び声

毎度お話しを致しますが、何分出離解脱の大問題でありますゆえ。幾重にも聴聞の角違いのないように願いたいことで。僅か五丁や三丁の、近い停車場へ行くにしても。もし方角違いをして歩いておることでは、日暮れまでかかっても、到着することは出来ません。今信心安心もその如く、後生大事と踏み出して、聞く気で聞けば、一座か二座の御化導で、頂き易い信心でも。大事の聴聞で角違いがあっては、娑婆五十年の日暮れまで御参りしても、安堵決定の駅に達することは出来ません。しかし、目に見えるこの世の方角なら、そのように間違う人もあるまいが。目に見えぬ問題になると、現在親子夫婦の中でさえ、意外の考え違いをして、生涯を過つものは世間に沢山あるならい。況んや、目に見えぬ未来の問題、信仰上のお話は、尚更間違いのあり易いは、理の当然でありますから。私のお話申す事柄に、御同心の出来かねる点がありましたら。御同朋御同行のお情けとて、何卒お聞かせを願いたい事であります。


 これまでは真宗安心の踏み出しの方角に付いて。信心を頂いてから、助けて貰うのでもなく、弥陀をたのんでから、救って貰うのでもない。如来の御助けが、この機に届いたことを信心というので。つまり遇無空過者*1の遇の字が眼目で。御助けに遇った形が、雑行捨てて弥陀をたのむ、信相とあらわるるのであります。その信相というも、受け心をいうのではない、受けた六字の働きであるから。一流安心の体は、南無阿弥陀仏の六字の相にして。受けた心地は、往生の用にはたたぬ、受けた品さえ確かなら、受け心は何とあろうと、往生に仕損じのないことを、充分にお話しを尽くしました。よってこれよりは、いよいよその信心を頂く、御助けを受け取る、という大切なる問題について、お話しを進めたいのであります。


 そもそも、阿弥陀如来の親様より、我々の手元へ与えて下さるる品物は、いくつもあるでしょうか。元より彼尊*2の御手元には、光明もあり、寿命もあり。功徳もあり、善根もあり、因位*3の万行、果地*4の万徳、実に無量無辺の品物でありますが。正しく我ら衆生が取引をする場合になると。六字の名号の外に、一物もないのであります。そこで、今日皆様方が、この六字の名号を頂いておしまいになれば、弥陀の身代の譲り渡しが済んだので。それが信心決定でありますが。あまり早くお渡ししてしまっては、説教商売の私の仕事が尽きるような気持ちもしますが。しかし如来様は、一日も早く与えてやりたい、貰ってくれよと、随分お急きなされておりますから。ご参詣の皆様方も、早速にこの名号を貰ってお帰りを願いたい次第である。


 しからばその名号を頂くには、如何して貰うのであるか、というお尋ねがでましょうが。それは少し早まったお訊ねで、貰う工面をする前に、頂く品を篤と吟味せねばなりませぬ。なぜならば、頂く品の分からぬうちに、頂きようの分かる道理はない。しかも頂く品によって、頂きようが違って来ますので。酒であったら徳利で受け取る。牡丹餅ならば重箱で受け取る如く。徳利で牡丹餅を受け取ることは出来ません。今阿弥陀如来より我々へ、発願回向と与えて下さるる御名号というは。酒のような品であるか、牡丹餅のような品であるか、皆様はご存知でありますか?滑稽話ではありませんよ。今はそれを頂いて、浄土へ参ろうという、大問題てありますぞ。頂く品も分からずに、受け取ろうかとかかるゆえに。用事もない受け心の詮議ばかりしているような間違いが起こってくるのであります。


 そこで六字の名号というは、如何なる品かと尋ねてみると。いうまでもなく、我らが未来の親様のお名前であります。全体名前というものはいかなる品かと問われたら、皆様は何とお答えになりますか?あなた方もめいめいにお名前は持って御座る筈である。名前を持たぬ御方は一人もありますまいが。さぁその名前というものは、如何なる品であるか。赤いものか、白いものか、長いものか、短いものか、堅いものか、柔らかなるものか、考えてご覧。うっかりしていると、自分に持っている名前の品も知らずに御座る御方もありますが。ここは曇鸞大師にお尋ねすると、早分かりであります。曇鸞大師は論註の中に『讃嘆は口にあらざればのべられず』と仰せられて。声名句文というが性相のきまりですから。名は声なり、声の屈曲によりて顕わるるが名というものである。しかれば何物の名前でも、口から声立て述べ顕すというより外に、名の品はないのであります。かく申したら皆様のうちに、名前は声でなくとも文字であらわさるると、迂闊の議論をなさる御方もありましょうが。文字は声の符牒である。文字の品は声の外にないのであるから。名前というものも、口よりあらわるる声の外に一物もない事と、御決着を願いたい。


 しからば阿弥陀如来の御名前も、その元を尋ねれば、西岸上の御喚び声。釈迦善知識の金口の説法。真実報土の正因を、二尊のみことにたまわるので。喚び声の外に名号なく、名号は必ず喚び声として見れば、受け取る手元は忽ち定まります。下さる品が声ならば、目で受け取る品でもなく、手で頂く品でもない。聞其名号と耳傾けて、聞きうるばかりで、信心歓喜と我がものになり。乃至一念と時を隔てず、至心回向の仕事は済んで、即得往生の大益を。住不退転と即座に得られるお手際が。六字にあるぞと聞かせて下さるが。願成就文一実円満の真教で。これが真宗別途、超世不共の妙法であります。

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以名摂物録(松澤祐然述)「10 六字は相談の文句に非ず」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)
以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録

*1:「ぐうむくうかしゃ」本願力に遇う人は空しく過ぎる者は無いの意味

*2: あなた

*3:阿弥陀如来が法蔵菩薩であったときのこと

*4:法蔵菩薩から阿弥陀如来になられたこと