安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「2 お助けを貰ったが信心なり」

前回の続きです。

2 お助けを貰ったが信心なり

 かくの如くお話しを進めて参りますと皆様のうちには定めて不審に堪えぬお方があるでしょう。成る程お助けを頂くが肝要に違いはないが、そのお助けを頂くには信心がなければ助けてはもらわれまい。たのむ一念のとき往生一定、御助け治定じゃもの、信心がなくては助かる訳にはゆかぬ。よって祖師聖人は信心為本の宗旨を開かせられ代々の善知識は、たのむ一念のところ肝要とお勧め下さる次第である。然るにその往生の正因たる信心の方をさしおきて、お助けを頂けとは何事である。と、非難の声が四方八方から出てくるでしょう。その非難の声をお出しなさるるので、いよいよその人が真宗の正意に戻ってござることが分かります。それは信心とお助けを二つにして、信心を貰ってから助けていただくような料簡で、つまり信心とお助けを交換するように思ってござる証拠である。そのようなお考えなら浄土真宗をお辞めになって、鎮西宗におなりなさるが結構であります。鎮西宗では心存助給の信心で、お助けを引きつけることにかかり果てている宗旨であります。


 そもそも浄土真宗は、信心を貰ってから助けて頂く宗旨ではありません。丸の裸のこのままで助けて頂いたことを信心決定したというので、阿弥陀仏のお助けがこの機に届いた時を南無帰命の信心と名づけるである。要するに信心というものを頂くのではありません。実はお助けを頂いたことを信心頂いたというのであります。世間には嫁を取った嫁を取ったと申しますゆえ、本当に嫁を取ったのかと私は事実調べてみましたに、全く嫁というものを取ったのではありません。何を取ったかと申せば娘をとったのです。嫁というものは丸髷結って亭主のあるもののことで、そんな亭主のあるものならやるものも無し、貰うことも出来るものではありません。私が幼年の時宮部和上の説教に、嫁が欲しくば娘を探せといわれたことが今に耳に残っています。お助けの生娘を煩悩のあばら屋へ貰い受けた時、信心の嫁といわるるので、私はここの味わいを委細に呑み込んで貰いたいために、信心をとることをやめにしてお助けを頂いて下されと申した訳であります。


 皆様よ、心静かに考えて見てくださらぬか。これが一念のそれが後念のと面倒な御信心を頂かずとも、差し当たり阿弥陀如来様から、助けて頂いてしまったら何も要らぬではありませんか。その何もいらぬようになったところが、雑行雑修のすたった形ではありませんか。その御助けの届いたままが、世話なしにたのみちからに信相とあらわるる所で、その御助けはどこにあるのかと聞いてみれば、この六字の御名号が願行具足、機法一体の御助けの法であったかと、心に届いた一念が、御助けを蒙った時じゃゆえ。一流安心の信相は、機からせめだす品ではない。心に届いた南無阿弥陀仏の六字の相が、安心の体にして、その御助けの六字一つで安堵の出来たありだけが口にこぼれて下さるる、それが報謝の大行なれば、煩悩に勝ちをとらせぬよう、称名念仏相続するが、後念の勤めと励みたいことであります。

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以名摂物録(松澤祐然述)「3 受け心の詮議は無用」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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