安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「仏願の生起本末を聞いて」疑うまいと考えてしまいます(頂いた質問)

「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」というのが、信心だと聞き、そのようになろうとしています。しかし、疑心あることないとはどんなことかと考えたり、理解しようと考えたり、疑うまいと考えていまいます。どうすればよいでしょうか?(頂いた質問)

言われるように、信心とは「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」です。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻)

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上記あるように、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」が「聞」ということです。「聞即信」ですから、そのように「聞いた」ことを「信心」と言います。別の言い方をすると「聞即信」は「聞いた」(因)によって「信心」(果)が現れると言う関係ではありません。「聞いた」のが「信心」であり、「信心」を「聞いた」というのです。

よって、「聞いて+α」では「聞きて疑心あることなし」とは言いません。別の言い方をすれば「聞くだけ」ということです。「+疑心」はあることなしなのが「信心」ということです。

つまり、「疑わないようにしない」こともないし、「理解しようと考える」こともないということです。それはどういうことかと言えば、南無阿弥陀仏に直接私が面するということです。南無阿弥陀仏は、「ただ今私を助ける」の仰せですから、それに直接面すると、そういうものと受け入れるより他ありません。

例えば、現在大雨に降られているとして、その現実を「考える」ことも「理解しようとする」ことも「疑わないようにしよう」ともしなくても「雨は雨」なのです。

そのように「ただ今救う」の仰せは、どう転んでも「そういうこと」なのです。「なぜ太陽はまぶしいのだ?」と考えることはあっても「まぶしい」ということに疑心を挟む人がないのと同じことです。「太陽がまぶしい」理屈を考えるのは、「まぶしい」と分かってからの話です。「太陽がまぶしい」と思ったことも無い人が「なぜ太陽はまぶしいのか」と考えるのはおかしなことです。

同様に、「聞いて疑い無いとはどういうことか」は、「聞いて疑いない」身になってからいろいろ味わったらいいことです。それを「聞かずに」先回りすると、堂々巡りになります。

まずは、先手の法を聞いて下さい。「南無阿弥陀仏のただ今救う仰せ」は絵に描いた餅ではありません。餅でいえば、つきたての熱々の餅です。そのまま聞いたのが救いです。だだ今必ず救われます。