安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

善悪を超越した阿弥陀仏の救いについて(リモさんのコメントより)

前回のエントリーの内容についてリモさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

リモ 2014/07/27 00:42
>人間の上での善悪を超越している

安心問答の2014_07_11のブログのコメントに重複しそうですが、
(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140711/1405070125)

「人間の上での善悪」をもう少し詳しく御説明して頂きたかったです。

yamamoyaさんは、煩悩具足の人間でも仏さまと同じ善(白業)ができるというお立場なのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140725/1406279168#c1406389359

南無阿弥陀仏について、前回のエントリーで「真実の行」と親鸞聖人が仰有っていることを紹介しました。

今回は、また別のご文を通して書きます。

円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智(教行信証総序)
(現代語訳)
自他不二、生死一如とさとりきわめた阿弥陀仏の無上の徳を円かに具えている名号は、人びとの煩悩悪業をそのままさとりの徳にかえていく智慧のはたらきをもっており

http://goo.gl/rPBzJM

これは教行信証総序のお言葉です。南無阿弥陀仏を「円融至徳の嘉号」と言われています。
円融とは、「それぞれのものが、その立場を保持しながら完全に一体となって、お互いに融けあいさまたげがないこと(浄土真宗辞典)」という意味があります。仏様の智慧から見ると、私たちが考えるような自分と他人、善と悪と言った区別は有りません。しかし、それを仮に名前をつけてそれぞれの名前で自他、生死、善悪と呼ばれていますが、本来はそれぞれはお互いに融けあいさまたげがないということです。それを支えているのは仏の智慧であり、その阿弥陀仏の智慧とお徳が完全に備わっているのが南無阿弥陀仏です。

その南無阿弥陀仏は「悪を転じて徳を成す正智」だといわれています。
この転じるということについて、親鸞聖人は唯信鈔文意に以下のように言われています。

罪をけしうしなはずして、善になすなり。(唯信鈔文意)

http://goo.gl/4hcqdx

ここでは、「罪を消してなくさないまま善にする」と言われています。このように言われるのは、罪とか悪には実体がないというのが前提に有ります。もし実体があるものならば転じるということは有りません。ここで転じるというのは意味が変わるという意味です。それを転じるのは仏の智慧によるものです。


しかし、人間の智慧ではそのあたりはよく分からないことです。悪は悪であり、善は善であり、全く別のものであり、また実体があるようにしか思えません。それが人間の上での善悪です。しかし、仏様の智慧からするとそのようなものは本来有りません。


この悪を転じて徳となすについては、毒と薬の関係で例えられることがあります。「薬も過ぎれば毒となる」の言葉があるように、薬とは本来毒なのです。その毒の成分をうまくコントロールすると、毒の成分がそのまま薬として働くようになります。そのように「悪」はそのまま、仏の智慧のコントロールが働くことによって徳として下さるというのが、総序の「悪を転じて徳を成す正智」ということです。


人間の考えでは、善によって悪を消し去るようにしか阿弥陀仏の救いを考えられませんが、そういうものではないということです。

最後になりましたが、お訊ねの

yamamoyaさんは、煩悩具足の人間でも仏さまと同じ善(白業)ができるというお立場なのですか?

について書きます。

できないという立場です。
なぜなら、仏様と同じ善ができるのは仏様です。もしできたらそれは凡夫とは言いません。