安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「大学合格者の体験記を読むと共通した事があるので、獲信者も同じだと思っていたのです。だから自分と他人を比較して(私に足りないものは何だろう?)ということばかりを気にしていました。(?さんのコメントより)

前回のエントリーで?さんから頂いたコメントより

大学合格者の体験記を読むと共通した事があるので、獲信者も同じだと思っていたのです。
だから自分と他人を比較して(私に足りないものは何だろう?)ということばかりを気にしていました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140419/1397851008#c1397855601

関連して思ったことを書きます。

妙好人の言行録を読むことは、有り難いものですが、人によっては大きく誤解を生むこともまた事実です。


その一番の理由は、?さんのコメントから引用すると「大学合格者の体験記を読むと共通した事がある」との考えから「私に足りないものは何だろう?」に意識が固定化されてしまうことです。


それのどこが問題なのかといえば、信心も疑いも自分の心の一部分と考えてしまうところです。もう少し詳しく説明すると、大学合格者と自分を比べる場合は「勉強方法」や「心がけたこと」など、自分の中の一部が合否を決定すると考えます。しかし、信心も疑いも自分の一部分のように考えるのは間違いです。


なぜなら、信心とは私の心の一部分ではないからです。同様に疑いも私の心の一部分ではありません。

というのは、信心といっても私の心のどこかにあるのではなく南無阿弥陀仏の仰せを疑い無く聞いている状態を言うからです。それは、逆に言えば「本願を疑う」のも、私の心中の癌細胞のようなものでも「109個目の煩悩」でもなく、南無阿弥陀仏の仰せを聞いていない状態を指しての言葉です。


そのように信心も疑いも自分のこころの中の一部だと思うと、自分の心の中を詮索するしか考えられなくなります。しかし、そもそもそのように自分の心の一部にあるものではないので、ないものを一生懸命探して「見つからない」と嘆いている状態になります。文字通り「終わり無き旅」の始まりです。

真宗で昔からいわれる言い方に「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪業機中に味わう」というのがあります。それに対して、自分の心の中を詮索する人の心は「信は罪業機中に味わい、慈悲は仏辺に味わう」というところです。つまり、信心を自分の心の中に探して、阿弥陀仏のお慈悲をどこか分からない阿弥陀仏に探しているということです。


それは前述しましたが、間違いです。これだけ罪業深いから信を獲られるだろうと自分の心の中に信心を探すのも、阿弥陀仏のお慈悲は大変なものだから私を助けてくださるだろうと、阿弥陀仏の中にお慈悲を探すのも間違いです。信心といっても、阿弥陀仏の仰せのほかはなく、お慈悲と言っても私の罪業以外にかかる所はありません。


ただ今救うの仰せにただ今救われて下さい。