安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信後に「煩悩の見え方」は変化するものなのでしょうか?(ひなさんのコメントより)

ひな 2013/08/01 17:01
山も山さん、「信後の煩悩の見え方」についてお尋ねしたいと思います。

私は親鸞会で「煩悩即菩提で、苦しみが喜びに転じ変わる絶対の世界がある。」と長年聞かされ続けてきました。
その為、親鸞会にいた時には(獲信すると精神構造が変わるんだ・・・)と本気で思っていたのです。
しかし「苦しみが喜びに転じ変わる絶対の幸福」など実際には存在しませんでした・・・。

苦しみは、苦しみのままです。
むしろ「疑情」がなくなったせいか、以前より自分の心の動きがハッキリと見えてきたように感じます。
でもそのせいで、以前より生きるのが辛くなってきたというわけではありません。
煩悩で悪を造る自分の無慈悲な心を(やっぱり私ってこういう奴だよな・・・)とただ冷静に眺めているだけです。

しかし、「苦しみが喜びに転じ変わる」ということはありませんが、「煩悩」を喜べる所が一つだけあります。
それは「この煩悩の塊である私が、阿弥陀仏の本願のお目当てであった・・・」ということです。
私は、ただこの一点でのみ「煩悩」を泣いて喜ぶことができます。

山も山さん、信後に「煩悩の見え方」は変化するものなのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130731/1375261051#c1375344110

結論からいいますと、変わります。ひなさんのコメントにあるように「煩悩そのもの」は変わりませんが、煩悩を通して見るものが変わります。

真宗で昔から言われる言葉に「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」というのがあります。真宗で言う「信心」は、仏様の側に仰ぐものであり、仏の「慈悲」は自己の煩悩罪悪の中に味わうというものです。

これはどういうことかというと、「信心」とは私の心のなかを探していくと出てくるものではありません。どれだけ探ってみても見えてくるのは煩悩以外にはありません。本願招喚の勅命を聞いて疑い無いのが信心ですから、信心とは阿弥陀如来の仰せをそのまま聞いていることです。ですから、そこにあるのは本願招喚の勅命以外にはありません。
そこで、私の心をみて見えてくる煩悩を通して、このような煩悩を抱えているものを憐れに思ってくだされたのかと阿弥陀如来の大慈悲を味わうことができるのです。


これは、大きな変化です。なぜならば、阿弥陀仏に救われていないころは、信心を煩悩の中に一生懸命探しており、仏の慈悲を仏様の方に向かって見ようとしているからです。「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」と真逆のことを考えています。言葉をそのまま当てはめると「信は罪悪機中(煩悩)に味わい、慈悲は仏辺に仰ぐ」となります。


この「信を煩悩の中に探す」という考えの延長が、ひなさんがコメントにかかれた「煩悩即菩提で、苦しみが喜びに転じかわる絶対の幸福(=信心)」という考え方です。考え方というか,そのように教えている団体があるのですから、間違った教えです。なぜなら「苦しみが喜びに転じかわる」つまり、「煩悩が何か別のものにかわる」のが信心であると教えているからです。しかし、繰り返しますが、煩悩はどれだけ見つめても煩悩しかありませんし、阿弥陀仏に救われても煩悩は煩悩のままで何もかわりません。


ただ、「煩悩を通して阿弥陀仏のお慈悲を味わう」というように変わるということです。そのように「煩悩の見え方」といいますか、煩悩を通して知らされることが変わるのが有り難いところです。