安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「(本願に疑い無い状態とは)ずっと私一人に思いをかけておられる阿弥陀如来の慈悲心が私の心にストンと届く、触れる、感じられることでしょうか。」(Moonさんのコメントより)


Moonさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

Moon 2013/12/21 21:40 回答、コメントありがとうございました。
阿弥陀仏の本願に疑いの無い状態とはどんなふうかと聞かれても、表現しにくいですが、敢えて言うならば、ずっと私一人に思いをかけておられる阿弥陀如来の慈悲心が私の心にストンと届く、触れる、感じられることでしょうか。本願まことだった、本当だったと心が晴れ晴れとして、ありがたいありがたいと涙している状態、阿弥陀如来の大きな慈悲心に包まれて安心できている状態、自信を持って山も山さんやたかぼーさんのように法を語れる状態。
こういったところでしょうか。


たかぼー 2013/12/23 13:26 「阿弥陀如来の慈悲心が私の心にストンと届く、触れる、感じられる」「阿弥陀如来の大きな慈悲心に包まれて安心できている状態」というのが本心から発露した表現であれば、その表現の根底には多分信があるということになるでしょう。私も前者の表現を信の表現としてよく使います。しかし、疑という側面から信を考察しなければ信を本当に理解したかどうか分かりません。信か疑かは紙の裏表のようなものです。疑があれば不信。疑がなくなれば信。信が分かれば疑が分かる。疑が分からなければ信は分からない。そこで逆に、「疑い」とはどういうものだと考えているのか教えて貰えないでしょうか。なお、「本願まことだった本当だったと心が晴れ晴れとして、ありがたいありがたいと涙している状態」や「自信を持って山も山さんやたかぼーさんのように法を語れる状態」は信ではないと思います。


たかぼー 2013/12/23 13:36 上記のコメント中の「なお書部分」を正確に理解して頂くために追記します。信があれば「(如来の慈悲が知らされて)ありがたいありがたいと涙している状態」になることはあります。「本願まことだった」という表現は信を表す表現としては不適切だと考えています。本願がまことかどうかは凡夫の智慧では分からないからです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131220/1387543631#c1387629637

「阿弥陀如来の慈悲心が私の心にストンと届く、触れる、感じられることでしょうか」といっても、間違いではないと思います。これは、たかぼーさんも言われているところです。

「仏願の生起本末を聞きて疑心あること無し」とは、「無疑心」のことです。これを、親鸞聖人は「信心」といわれました。そこで「無疑心」とはどういうことかといえば、「無疑心」の文字通り、「疑い無い」ということです。さらにいえば、それ以上に何か付け加えるものを必要としないということです。


無疑とは、疑わないようにしている状態とは違います。すでに現在あるものに対しては、私自身があれこれいうことがない状態を無疑といいます。例えば、最近天気も悪く雪が降っているような日に、「今日は雪ですね」といわれれば「そうですね」としかいいようがありません。さらにいえば「ストンと届く」というものではありません。


「そうなっているのだから、こちらが何かいうことではない」というのが「無疑心」です。目の前に雪が降っているのに「そんなはずはない」と言う人はいません。そのように、「ただ今助ける」の阿弥陀仏の仰せに「そんなはずがない」と無疑心の人はいいません。


私の身の回りで起きたことで例えると、年末の大掃除時期にはあぶら落としの方法についてあったことです。あぶら落としには「重曹スプレー」が効くと知っていた私は、両親にそのことを伝えました。しかし、特に母親は「そんなもので油汚れが落ちるのかしら?マジックリンの方が落ちるにきまっている」と疑いを持っていました。しかし、実際に目の前で重曹スプレーで台所の油汚れが落ちるのを目の当たりにして「本当に落ちるのね」と言っていました。


このように、「そうかもしれないが、まずそんなことはないだろう」と疑っているのが疑心です。それが晴れた時には「本当だった!(確信)」というよりは、「あら、本当だったのね(想定外)」という方が実態に近いと思います。


阿弥陀仏の本願をよくよくその後聞けば、まことに有り難いものであり、安心も出来ることもありますが、救われたその時にそのように思えるほど私は「阿弥陀仏のただ今の救い」に確信めいたものを持っていたわけではありません。「いつかはそうなるかも」とか「ただ今ならなぜ救ってくれないのか」と疑ってばかりいました。その私があれこれいう前に、先だって「ただ今救う」の本願が成就していることに疑い無いときは、「あら?そうだったのですか」というのが正直なところです。これは自分の思惑が外れて、かつ反論の余地がないことが明らかになったときの正直な気持ちだと思います。


安心できるとか、人に話をするということは「信心」そのものではなく、「信心の利益」です。有り難いと思えるのも、信を獲た上での阿弥陀仏のお育てによるものであって、私に何か手柄があるわけではありません。


Moonさんは、「信心の利益」を「信心」と想定して「そうなりたい」と思われるのであれば、それは違います。あくあまでも「信心」とは「本願を聞いて疑心あることなし」の「無疑心」が信心です。