安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「御慈悲な阿弥陀様だから、念仏を称えて聴聞を続けていれば南無阿弥陀仏の自然のお働きによってそのうち聞こえてくださると信じたいのですが、信疑決判、信疑決判と何度もいわれるとどうしたらよいのかわかりません。他に方法もないのに、一体どうやって聞いたらよいのでしょうか。」(MENDELさんのコメントより)

MENDELさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

MENDEL 2012/04/24 00:54
阿弥陀仏の呼び声を疑いなく聞いて他力に帰したいとは思いますが、どう聞いたら聞即信になれるのか分かりません。
御慈悲な阿弥陀様だから、念仏を称えて聴聞を続けていれば南無阿弥陀仏の自然のお働きによってそのうち聞こえてくださると信じたいのですが、信疑決判、信疑決判と何度もいわれるとどうしたらよいのかわかりません。他に方法もないのに、一体どうやって聞いたらよいのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120423/1335171518#c1335196467

端的にお答えすると「どうやって聞いたらよいのか」を捨てて、本願を聞いて下さいということになります。コメントに書かれているように、方法というものはありません。

本願+聞き方→聞いた 
という図式で考えておられるのではないかと思いますがいかがでしょうか?

ここで「聞き方」というのが「疑」にあたります。どうか「聞き方があるのでは」という思いは、計らいなので捨てそのまま本願を聞いて下さい。そのまま聞くというのは、凡夫の分別を交えないということです。南無阿弥陀仏は、私の「理解」というフィルターを通さずに、そのまま聞くものです。そういう意味では、人間同士の言葉を聞くのとは違います。

人間同士の言葉では、相手のいう「言葉」を私が「理解」しなければ、伝わることはありません。しかし、南無阿弥陀仏は阿弥陀如来の仰せですから、逆に私が「理解しよう」というフィルターを加えると、伝わらなくなります。
なぜなら親鸞聖人は、「本願招喚の勅命」と言われているからです。

ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻・浄土真宗聖典(註釈版)P170)

http://goo.gl/G90DC

「勅命」とは大変強い仰せです。私があれこれと計らいを挟むところがないことを「勅命」といわれています。

程度の多少を問わず、私の考えを差し挟むことは、すべて自分の計らいであって、それを差し挟めば他力とはいいません。

この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。(正像末和讃・自然法爾章・浄土真宗聖典(註釈版)P621)

http://goo.gl/hkf2f

ここで言われているように、阿弥陀如来の本願は「もとより行者のはからいにらず」です。MENDELさんのコメントでいえば「どう聞いたら」ではありません。
こう聞いたら(義)がないのが、他力です。

阿弥陀如来の本願は、元より私を助けることになっているのですから、それに手を加えずに、本願をそのまま聞いて下さい。必ずただ今救われます。