安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏なら確かに届いているわけです。しかし問題は、南無阿弥陀仏と称えて、それが「そのまま助ける」とは聞こえないところです。」(質問者さんのコメント)

質問者 2013/10/04 01:13
(略)お働きに救われるのですね。仰る通り人格的な阿弥陀仏に救われると思っていました。
「阿弥陀仏に会っていないのに、仰せをきくのは随分難しいな」「そのまま助けると仰る言葉は聞こえてこないし」と思っていました。
南無阿弥陀仏なら確かに届いているわけです。
しかし問題は、南無阿弥陀仏と称えて、それが「そのまま助ける」とは聞こえないところです。
そして、たかぼー様、コメント有難うございました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130927/1380274689#c1380816803

質問者さんへの回答エントリーが遅くなりすみませんでした。質問が終わったように勘違いをしておりました。


あらためてお尋ねの部分について書きます。
南無阿弥陀仏と称えて、それが「そのまま助ける」とは聞こえないの件ですが、質問者さんはそれが「音声として変換されて聞こえる」というように思われているのならそういうことはありません。また「そのまま助ける」と聞こえてから、救われるということになりますと、聞即信とはなりません。


阿弥陀仏の本願力は、私が称えられる南無阿弥陀仏となって私の上に現れて下さっています。ですから、私の口から称えられ、耳に聞こえるこの「南無阿弥陀仏」以外には何もありません。しかし、その南無阿弥陀仏のいわれはお釈迦さまから私たちは聞かせていただいております。それをまた、親鸞聖人は「仏願の生起本末」といわれ、蓮如上人も「六字のいわれ」と教えてくださっています。

質問者さんは、その「仏願の生起本末」も「六字のいわれ」もすでに聞いておられるはずです。しかし、「聞いているが、まだ信心とはいえない」と思っておられるのではないでしょうか?その考え方は「聞」と「信」が、因果関係になっています。「聞いて疑い無い」その先に「信心となる」「救われる」では、聞即信とはいいません。


また、私が称えているといってもこの南無阿弥陀仏は、善導大師が六字釈に「南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と言われています。

そのなかの「発願回向」について親鸞聖人は

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(教行信証行巻)

http://goo.gl/nf036

と解釈されています。阿弥陀仏が、私を助けてやりたいと願われて与えるために成就されたものだということです。ですから、この南無阿弥陀仏は私が称えるものではなく、称えさせるように成就されたものです。そのように称えさせ、信じさせ助けるというお働きが、南無阿弥陀仏です。その助けるのお働きに助けられるのですが、それを心に受けたのを信心といいます。またそれを聞いたといわれます。聞いてから助かるのではなく、助ける法に助けられたと聞いたことを信心といいます。

質問者さんに対するコメント

前のエントリーに他の方から質問者さん書かれたコメントを紹介します。

もかな 2013/10/05 01:14
質問者さん、ごめんなさい。

私は、山も山さんのように質問者さんの問いにお答えすることはできません。
でも、この場をお借りして質問者さんにお礼が言いたいです。
質問者さんの質問のおかげで私も質問することができ、今まで疑問に思っていたことを解決することができました。

どうもありがとうございました。


>しかし問題は、南無阿弥陀仏と称えて、それが「そのまま助ける」とは聞こえないところです。

・・・・・・質問者さんは、ここで悩んでおられるのですよね?

わかっておられるとは思いますが、もちろん「南無阿弥陀仏」という言葉自体が、違う言葉に聞こえてくるというわけではないです。
そうではなくて「南無阿弥陀仏のおいわれ=仏願の生起本末」が、すべて自分のことを言っているとしか思えなくなるのが、「南無阿弥陀仏がそのまま助けると聞こえる」ということです。

・・・と、私のお領解を書いてはみましたが、わかりにくいと思いますので、詳しいことは山も山さんに教えて頂いた方がいいと思います。

最後にもう一度・・・不愉快な思いをさせてしまって、ごめんなさいね。


たかぼー 2013/10/05 11:22
 人によって南无阿弥陀仏の働きに違いが生じることはありません。祖師と私に対する南无阿弥陀仏の働きにも何らの違いもありません。では、あなたと祖師に対する南无阿弥陀仏の働きに違いはあるのでしょうか。まったく違いはありません。
 問題は、「南無阿弥陀仏と称えて、それが「そのまま助ける」とは聞こえない。」と考えてしまっているところにあります。それが祖師との唯一の違いです。祖師は、南无阿弥陀仏の仰せに信順されました。では、祖師とのその違いは南无阿弥陀仏の働きの違いの結果でしょうか。そうではありません。南无阿弥陀仏の働きに違いがないのであれば、自分はどうしたらよいのか、と自問自答されることでしょう。しかし、「南無阿弥陀仏と称えて、それが「そのまま助ける」とは聞こえない。」と考えてしまう限り、ご自身でもどうすることもできないのではないですか。
 さて、ここからが重要です。南无阿弥陀仏の働きに間違いがないと如来が言われているのであれば、それでよいのです。他には何も必要としません。南无阿弥陀仏の働きに間違いがないと如来が言われているのに、如来の救いについてどうすればよいかと考え悩むことに何か意味はあるのでしょうか。それが如来のお救いに役立つのでしょうか。南无阿弥陀仏は如来のまことの願心そのものです。そして、そうであったのか、との思い(領解)が定まれば、一切の自力の思いがすべて廃るのです。祖師が如来の真実心についての経論釈をご本典に多く引用し、かつご自釈されているのは、南无阿弥陀仏の働きに間違いがないことを私に教えてくれているのです。


たかぼー 2013/10/05 11:33
因みに、2字4字分釈とか六字皆機皆法釈というのは、いずれも南无阿弥陀仏の働きに間違いがないから、その働きがそのまま私の信となるということを説明するための釈であり、如来のお救いに一切の自力が間に合うことがないという全分他力のお救いであることを教えんが為の説明のための論理です。ですから、上記の釈はあなたの提起する問題にとても重要な関係があるのです。


たかぼー 2013/10/05 13:11
真偽検証に、加茂仰順師の言葉が多く引用されています。今のあなたの心境にしみこんでくる説教になると思います。ご一読されることをお勧めします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130927/1380274689#c1380903299