弥陀をたのむ(おまかせする)ということは、南無阿弥陀仏に関して自ら信じようとしないということでしょうか? | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
「自ら信じようとしない」ということもないことです。
阿弥陀仏がまかせよとの仰せを聞き入れたのが、弥陀をたのむ(おまかせする)ということです。
「弥陀をたのむ」について御文章に複数出てきます。今回は、以下の御文章について書きます。
この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。(御文章 (三帖) - WikiArc五通・浄土真宗聖典註釈版P1144)
ここで「南無とたのむ衆生を」とあります。「たのむ」とは、「南無」(帰命)のことであり、「衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころ」であると言われています。
阿弥陀仏をたのむと言っても、それは阿弥陀仏が助けると働きよびかけられていることがあってのことです。私が「おまかせします」と力を入れることに呼応して阿弥陀仏が助けて下さるのではありません。
ですから、自ら信じようとするのも「おまかせする」ではありませんし、反対に「自ら信じようとしない」とことも「おまかせする」ではありません。
阿弥陀仏が私を助けるとの仰せに対して「たすけたまへとおもひて、余念なきこころ」がおまかせするということです。「まかせよ」の仰せがあっての「おまかせする」ですし、「おまかせする」があっての「もらさずすくひたまふ」ですから、どちらかが先とか、後というよな切り離せるものではありません。
「私」が信じようとすることも、信じようとしないともそれは関係ありません。阿弥陀仏の助けるの仰せを聞いて疑い無いのが弥陀をたのむということです。
追記 youtubeでの回答
こちらでもこの記事について話をしました。
www.youtube.com