安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「六道輪廻なんて過去の遺物だとしか思えない僕には、浄土へ往きたいとは思えそうにありません。僕は、浄土真宗では救われないということなのでしょうか…」(さとしさんのコメント)

さとし 2014/12/06 06:27
名号を手形に譬えて説明されてますが、手形をほしいと思わなければ衆生は結局のところ手形を受け取ることはできないんじゃないでしょうか。
「後生一つに病み患い困り果て」ていればこそ、「ありがとうございます」と受け取ることもできますが、後生を問題にしない者は、受け取れないというか、欲しいとも思わないわけです。
普段のおこづかいをいつも硬貨でもらっていた子どもに、お年玉として千円札で渡したところ、こんなものはお金ではない、いらないと言ったというような話を聞いたことがありますが、欲しいと思わなければ、親の側が渡そうとしても渡すことはできません。
つまり、後生を問題とせず浄土に往きたいと思わない者には、名号という手形は受け取れないのではないではないかということです。六道輪廻なんて過去の遺物だとしか思えない僕には、浄土へ往きたいとは思えそうにありません。
僕は、浄土真宗では救われないということなのでしょうか…

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20141202/1417509980#c1417814821

「後生を願う」ということを、「六道輪廻を過去の遺物と考える人には無関係」と考えるのは早計です。

なぜなら「後生」という言葉は、そのうちやってくる未来のいつかの事ではないからです。というのは、「後生」といっても、それは「そのうち」ではなく「ただ今」のことです。ただ今やってくる後生が分からないということは、そのまま「ただ今生きる」ことが分からないことと同じことになります。


もう一つは、「浄土に行きたい人」を目当てに阿弥陀仏は本願を建てておられません。さとしさんの言葉を使えば「後生を問題とせず浄土に往きたいと思わない者」を目当てに本願は建てられています。ですから、元々、阿弥陀仏の救いは「後生を問題とせず浄土に往きたいと思わない者」をなんとか救う為に建てられています。その本願力によって、現在浄土往生を信じられない人も、浄土往生を願うようにして下さいます。


ですから、現在「後生を問題とせず浄土に往きたいと思わない者」だと自覚して、自分は浄土へ往生できないと思う必要はありません。現在、このブログに、さとしさんがコメントを書かれるのは何かを思われてのことだと思います。その「何かを思う」ことが、浄土往生を願う機縁です。それは、すでに本願力にあわれている証拠です。その本願力に本当にあうならば、空しい人生とはなりません。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなしぬ(高僧和讃)

http://goo.gl/be00Z1


具体的な何かがなくても「救われたい」と思われるのは、阿弥陀仏の本願力のお働きと聞いてください。ただ今救う南無阿弥陀仏のお働きを知って、その本願通りに救われてください。


さとしさんは、必ずただ今救われます。なぜなら、阿弥陀仏がそのように願いを建てられ、その願いは既に成就しているからです。

続きます。

追記 2014/12/09 17:10

以名摂物録(松澤祐然述)「17 廻向は六字なり」 - 安心問答(浄土真宗の信心について)S1317さんのコメント から「その本願力によって、現在浄土往生を信じられない人も、浄土往生を願うようにして下さいます。」を加えました。