安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

歎異抄7章の「信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」は、神や外道を否定された言葉なのでしょうか、それとも神を肯定されたのでしょうか?(コンニャク信心さんのコメント)

コンニャク信心さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

コンニャク信心 2013/02/19 12:43
あのー、すみません。
歎異抄7章の「信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」は、神や外道を否定された言葉なのでしょうか、それとも神を肯定されたのでしょうか?
横道それるようで恐縮ですがよろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130219/1361216372#c1361245380

歎異抄第7条の全文は以下のものです。

一 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

お尋ねされたことについて、外道は否定されるものですから、親鸞聖人は神を否定されたのか肯定されたのかということだと思います。


答えを結論からいいますと、神を「私を救って下さるものとして祈願する対象ではない」という意味で否定されました。一方、神について親鸞聖人は念仏する者を尊敬して下さり守って下さるかたとして肯定されています。それを一言で「天神・地祇も敬伏し」という部分です。どちらもあるというのが答えになります。


当時は、本地垂迹説が主流で、神も本地(本来の姿)は仏であるという説が多くの人に信じられていました。そのため、神を仏と同じものとして祈願している人が多くありました。それに対して、「天神・地祇も敬伏し」と言われることで、神は私が「救ってください」と祈願する相手ではないということをいわれています。
そして、親鸞聖人は神と仏は別のものであり、天神地祇は念仏者を守護してくださるものであるということをあらわすために「天神地祇も敬伏し」といわれています。


そのことを御消息にはこのように書かれています。

仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。(御消息(上)27_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P786)

http://goo.gl/ewY02

天神地祇を仏法をふかく信ずる人を守ってくださるので、念仏者は天神地祇を捨てようとかおろそかに思ってはならないといわれています。私が天神地祇に救いを求めて祈願請求することはありませんが、ことさら非難攻撃するようにおろそかにしてはならないと言われています。