安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心で救われる事に間違いはないのですよね?」(Wilou::Ji**さんのコメントより)

前回のエントリーに複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。

Wilou::Ji** 2014/06/20 02:46
親鸞会の電話に出た方は、自力の念仏をするものを救って下さると信じるのは間違いという意味だったのかも知れません。誠に申し訳ありませんでした。


Wilou::Ji** 2014/06/20 04:12
私は親鸞会に電話した後、「遍数の定まりなきほどをあらはし、・・・」という乃至の意味から念仏しなくても救われると思い、罪深い衆生を救って下さる阿弥陀如来の至心を信じるのだと思いました。(今も思っています。)

そして、念仏を以下の文のままに受け取っていました。

「往生の業は一念にたれりといえども、いたずらにあかし、いたずらにくらすに、いよいよ功をかさねんこと要にあらずやとおもうて、これをとなえば、ひめもすにとなえ、よもすがらとなうとも、いよいよ功徳をそえ、ますます業因決定すべし。抄出(唯信鈔)
http://www.icho.gr.jp/seiten/html/928.html

よく考えたら、「遍数の定まりなきほどをあらはし、・・・」という乃至の意味から念仏しなくても救われると思って念仏ゼロ回の時しか考えずに、他力の念仏をするものを救ってくださることを信心の内容から切り落としてしまった事が、私に間違いが生じた原因だったと思います。

「乃至一念」とは、これ更に観想・功徳・遍数等の一念を言うにはあらず、往生の心行を獲得する時節の延促につきて、乃至一念と言うなり。略出(浄土文類聚鈔)
http://www.icho.gr.jp/seiten/html/405.html

以下の詮なく候ふとは、どういう意味でしょうか?

信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/消息下#P--785


id:yamamoya 2014/06/20 17:58
Wilou::Ji** さん

詮なく候ふとは、そのまま言うと「その甲斐がない」という意味です。
「信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。」というのは、信心には必ず名号をともなうものですから、信心があるといいながらも念仏を称えないようではその甲斐がないといわれたものです。
もっと言えば、念仏をともなわないような信心は本当に真実信心といえるのでしょうか?といわれたものです。


Wilou::Ji** 2014/06/20 18:39
しかし、信心で救われる事に間違いはないのですよね?


id:shinrankaiuso 2014/06/20 20:42
「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。(唯信鈔文意)

信心と念仏との関係がわからないと、親鸞会のような愚かな解釈を考え出すのでしょうね。


Wilou::Ji** 2014/06/21 01:31
上記、「真実信心をえて他力の御なをとなふる人のみ、みな往生す」という意味ではないのですか?


id:shinrankaiuso 2014/06/21 01:36
もちろん他力の念仏のことですが、ここで仰っていることは、「となふる人のみ」ですね。


Wilou::Ji** 2014/06/21 01:36
念仏申さんとおもひたつこころがおきる前に救われていると思っていました。


id:shinrankaiuso 2014/06/21 01:45
「念仏申さんとおもひたつこころ」とは、そのまま念仏を称える心ですから、念仏を称えるのです。念仏称えない人は、「念仏申さんとおもひたつこころ」が無い人です。
念仏と信心とを切り離すことは、それ自体が自力の心です。


Wilou::Ji** 2014/06/21 02:24
乃至の意味に「遍数の定まりなきほどをあらはし、・・・」とあるので

念仏申さんとおもひたつこころがおきる前に救われるのではないのですか?


id:shinrankaiuso 2014/06/21 02:30
「念仏申さんとおもひたつこころのおこる【とき】、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」です。
「念仏申さんとおもひたつこころのおこる【前】」ではありません。

「遍数の定まりなきほどをあらはし、・・・」は、念仏の数を問題にしないということですが、念仏を称えることが前提、つまり「念仏申さんとおもひたつこころ」があっての話です。


Wilou::Ji** 2014/06/21 02:47
それ、わが身のつみのふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏を、ふたごころなく一向にたのみまいらせて、一念もうたがうこころなくは、かならずたすけたまうべし。(御文・三)

上記はusoですか?


hukurou 2014/06/21 04:50
そのとき阿弥陀仏は必ず、南無阿弥陀仏を使うんじゃないですか?


id:yamamoya 2014/06/21 05:05
Wilou::Ji** さん

信心で救われるというのは、信心定まったとき救われるということです。○○で救われるという文章は、○○に救う働きのあるものが入らないと意味が通りません。ですから、○○には南無阿弥陀仏で救われるとするのが適当です。その南無阿弥陀仏を念仏と言えば念仏往生という言い方になります。その南無阿弥陀仏を私が聞き入れていることを信心といいます。
信心となっている人が浄土往生を遂げるという意味では、信心為本となります。
エントリーにも書きましたが念仏と親鸞聖人がいわれるのは他力念仏であり阿弥陀仏の行です。
その何で(阿弥陀仏の行・南無阿弥陀仏・他力念仏)往生するのかという点をぬいて信心という言葉を出しても話が混乱すると思います。


id:shinrankaiuso 2014/06/21 06:17
「念仏する者を救う」と親鸞聖人が何回も仰っているのに、親鸞会はそれに反発するのですから、浄土真宗とは異なる教えということですよ。

親鸞聖人が「念仏する者を救う」と仰っているのは、usoですか?


たかぼー 2014/06/21 11:47
「ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまいらせて一念もうたがうこころのない」状態になったときは、「往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」でもあり、いずれも信を表現しているものと思われます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140619/1403169715#c1403200005

2014/06/21 12:26時点でのコメントをまとめました。


そこでWilou::Ji** さんのコメントの「信心で救われる事に間違いはないのですよね?」について重ねて書きます。

信心で救われるというと、信心が行であるかのような印象を受けます。
よく言われる例えで言うと、行とは薬のことです。薬には病気をなおす働きがあります。しかし、薬を飲まないと私の病気が治るということはありません。
そこで、この例えでいうと「信心で救われる」という言葉から感じるのは「飲んだら治る」と言っているようなものです。なぜなら「飲んだら治る」とだけ聞くと、誰でも「何を飲んだら?」と疑問を起こすからです。
つまり、「薬を」飲んだら、という話が単に「飲んだら」にすり替わっていると言うことです。

「信心で助かる」の言葉には、例えでいうところの薬が抜け落ちています。


Wilou::Ji** さんにお尋ねしたいのですが、Wilou::Ji** さんの考えておられる「信心」とはどういう定義なのでしょうか?ここは大事なところなのでお尋ねします。